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課題集 ペンペングサ3 の山

○自由な題名 / 池新
○寒い朝、体がぽかぽか / 池新

★かつて、「若者の活字離れ」と / 池新
 かつて、「若者の活字離れ」と言われた。しかしこれだとてあまりにも不正確だ。これは、「かつて本を読んでいた若者の活字離れ」で、「大学生の活字離れ」というものでしかない。その昔、世の中には大学生以外の若者だとて大勢いた。初めから本なんか読まないでいた「若者」だとてゴマンといたのだ。「今の若者は難解な思想書など読まない」とこの二十年ばかり言われ続けて、しかしその一方で、平気で難解な思想書を読む若者だとて増え続けてはいるのだ。もっと物事を正確に言ってほしかった――「今の若者は、私達が読んだような思想書は読まずに、別の思想書を読んでいる」と、それだけのことだった。本を読むやつはいつだって読む。本を読まない人間は、いつの時代にもいる。そしてこの近代という期間の日本は、その両者に対して、「本を読むべきだ。本を読むということが自身の思考力を身につけることなのだ。人は言葉で思考し、その思考を言葉によって整理する。人にとって思考と認識とは、人である限り続く義務であり権利であるはずのもので、そのことの結果によって得るものが「自由」と呼ばれるものだ」と、知性なるものが言い続けてきた時代だ。その、強制力にも似た声があればこそ、ともすれば怠惰になりがちな若者達は、かろうじて本を読み続け、思考というか細い力を持続させて来たのだ。その努力を捨てて、活字の側が「活字離れ」などという安易なレッテル貼りで、啓蒙という義務を怠ってよい訳がない。にもかかわらず、活字はそれを怠ったのだ。
 世の中には、大学なるものと無縁のままの人間がいくらでもいる。がしかし、それらの人間が知性と無縁である訳ではない。がしかし、大学に代表されるような知性は、そうした「異質な知性」の存在を拾い上げられなかった。
 世の中には、文章以外の表現はいくらでもある。絵という視覚表現は、文字以上に古い人間の表現手段だ。がしかし、「これをこう読め」と活字なるものに命令されることに馴れてしまった活字人間は、その「どう読み取ってもいいよ」と言っている視覚表現の読み取りが下手だった。まるで「役所の書式に合致していないのでこれは受け付けることができません」と言う頑なな役人のように、自分達とは系統の違う文化の読み取りを、活字文化は拒絶し続けて来た。すべての文化には、それが文化であるような構造が隠されてい∵る――だから、読み取りという作業が必須になる。その構造を自身の頭で読むということが、そんなに難しいことだろうか? 偏見のない人間は、未知の人間であっても、「この自分の目の前にいる人間もやはり人間なのだから、必ずコミュニケーションを成り立たせる道はあるはずだ」と考えるものだ。人は、現実生活の中で、無意識の内に自分とは異質な異文化――即ち「他者」との接点を見出そうとしているものなのに。
 活字離れというのは、活字文化という閉鎖的なムラ社会に起こった過疎化現象だ。「ここにいても自分達の生活は成り立たない、ここにいても自分のあり方というものは理解されない」と思った若者達は、トカイという雑駁な泥沼に消えて、もう山間のムラには帰って来ない。次代の後継者はムラを去って、ムラはさびれる。さびれてしまったことを理解しない閉鎖的なムラの住人達は、ただ「寂しくなった」という愚痴ばかり繰り返して、そんな愚痴が、人をそのムラから追い払う元凶の一つでもあることに気づかない。ムラはさびれ、そのムラを発展させてムラ社会という閉鎖性を解き放つはずだった後継者達は、焦点を欠いたトカイの中で無意味な浪費を繰り返す。退廃の元凶はどこにあるのかと言われたら、私には、「ムラにある」としか言えない。活字の責任というものは、想像を絶して重いのだ。

(橋本治『浮上せよと活字は言う』より)

○■ / 池新