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課題集 ペンペングサ3 の山

○自由な題名 / 池新
○クリスマス、おおみそか、お正月 / 池新
★独裁と民主主義、内申点 / 池新

★教師の指示もなしに / 池新
 教師の指示もなしに、日直が号令をかけたり、朝会が行われたり……。だが、こうした日本の小学校の情景を見て、ローレンス校の教師たちが、日本の児童たちが教師の指示もなくまったく彼ら独自の判断によって動いているのだと考えたならば、早合点である。確かに、日直は自分の判断に基づき、「今日はここまで」というような教師の言葉を手がかりとしつつ、授業の終わりを察して号令をかける。しかし、最終的権限は教師にある。これは、日直が時として「もう号令をかけてもよろしいでしょうか」と教師の顔をうかがったり、教師が日直に号令のやり直しをさせたり、日直が号令をかけやすいように、「静かに」とクラスを注意をすることからもうかがうことができる。
 日直や係が中心になって行う学級の話し合いなどでも、「困った」方向に向かっていると考えた場合には、教師は方向づけをする。たとえば、児童にお互いのよい点と悪い点を話し合って反省の材料にしてもらおうとするようなときに、クラスの嫌われ者が皆からの集中攻撃にあって、誰も助けないような場合は、教師は、その子供のよいと思われる点を皆に思いださせることによって、個人攻撃をやわらげようとするかもしれない。
 アメリカ人は、時として、日本の会社などでの小集団活動は、権力を握る人々が背後から操る、従業員の統制手段に過ぎないという理解を示す。集団や他者から自立した「個」を強調し、権力に対する警戒もことさら強いアメリカ人からすると、日本の小学校での小集団活動も、このように映るかもしれない。
 確かに、日本の学校の小集団は、権力に対抗するために児童によって結成されたのではなく、反権威主義的な色彩を持つものでもない。児童の管理に利用されている面もあると思われる。だが、このような側面のみを強調したならば、日本の教師は心外に思うに違いない。集団自治を目指す以上、彼らには、児童の集団自治活動になるべく介入すまいという心理的規制が働いている。その意味では、直接的に児童に指示を下すことをためらう必要のないアメリカの教師以上に、行動を規制されていると感じる面さえあるかもしれない。
 こうした日本の学校の小集団活動の特徴は次のように考えられ∵る。
 (1)目標、手順、役割が明確である
 (2)活動がルーティン化されている
 (3)児童相互の集団規制を利用している
 朝の会を例にとると、どのようなことが、いかに行われるべきか、その中での参加者の役割は何かが示され、それがルーティン化されるのである。つまり、「型」が示されるのである。活動内容、手順、役割がはっきりしているため、従わない者に対しては児童相互の規制が働きやすく、実際にそのような行動が奨励されている。ルーティン化は教師の側から見ると、期待とは大きく外れた結果が出ることを未然に防ぐ役目があると言えよう。こうして、日本の教師は、絶えず指示をあたえなくとも、時として自分が不在でも、活動がいつも通り滞りなく行われることを期待できるわけである。
 簡略化すれば、アメリカの小学校では教師が個人リーダーとして、自ら指示を下して児童を率いていく仕組みであるのに対し、日本では教師が集団による役割分担と児童相互の規制を利用しつつ、直接統治と間接統治とを併用する形になっている。一定期間固定された班などの小集団の中での児童相互の規制が奨励され、教師は背後からそれを誘導するのである。
 一方、授業外の小集団活動が発達していないアメリカの場合、児童は担当教師を初めとする教職員の、「上から下」への指示に直接、従う形となる。

(恒吉僚子『人間形成の日米比較』より)