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課題集 ペンペングサ2 の山

★(感)岡潔先生のお考えは/ 池新
 【1】岡潔先生のお考えはこうである――私たち日本民族には、人の喜びを自分の喜びとして、人の悲しみを自分の悲しみとして体得することができる心情があるという。【2】蕉門の物のあわれを感ずる心、思いやりの心、情(情緒)であって、仏教でいう、自他の対立のない非自非他の心境(真我、大我)に徹しさせる無差別(である。この知恵が、私たち日本民族をかくも栄えさせているのだといわれる。
 【3】トインビー博士のご意見はこうである――人間にとって、物質的な面よりも重要なのは、自分と他の人びととの間に、忠実な協力の心を作ることである。もともと、これは人間の天性にとって非常にむつかしいことである。【4】個人の生涯であれ、社会の歴史であれ、人間の悲劇はすべて、この面の倫理的努力を人間がおこたったことから出発している。そして、この協力の心を教え、指導するのは宗教であるといわれる。ちなみに、英語の宗教religionということばの語源は、結びつけるという意味である。
 【5】岡潔先生とトインビー博士の表現の違いは、培われた精神的風土の違いによるのであって、願う心は同じである。私は、岡潔先生やトインビー博士の願う心を受けいれるのに決してやぶさかではないどころか、私の心はそれにいたく共鳴している。
 【6】しかし、そうはいっても、あの顔つきはいやだ、あの皮膚の色は好かない、あの主義主張は気にくわないといわれてしまえばそれまでである。そうなると、私たちは、もっと掘りさげて、文句なく理屈ぬきで、相手を認めることができる足場を探さねばならない。【7】幸いにも、その足場を、私は、脳の仕組みのなかに求めることができたと信じている。
 それはいのちの座である脳幹・脊髄系である。脳幹・脊髄系は、人種の違い、民族の違い、ことばの違い、イデオロギーの違い、風習の違い、皮膚の色の違いなど、【8】精神的、肉体的のすべての違いを超越して、ただ黙々と私たちの身体の健康を保障してくれているいのちの座である。脳幹・脊髄系には、全く色がついていない。
 私たちは、前頭連合野の働きによって、自分のいのちに限りない執着をもっている。【9】そんなに執着の心があるのなら、全く個∵性のない、共通の構造と働きをもっている他人の脳幹・脊髄系なら、無条件に認めることができ、そこに営まれるいのちだけは、理屈ぬきで愛惜することができるのではなかろうか。
 【0】私たち人間の死とは、個性をもった人格者の消滅であることには異論はなかろう。そうであるなら、前頭連合野のすばらしく発達している新皮質系の機能の喪失したときが、人間の死といえよう。しかし、私たち日本人は、西洋諸国の人々と違って、脳幹・脊髄系だけで生きている「植物人間」に対しても、あらゆる努力を払って生きながらえさせようとしている。「植物人間」から、移植用の心臓を切りだすことを許さない私たち日本人の心情、すなわち、生に対して限りなく「思いをかけ」、「思いをのこす」心根は、脳幹・脊髄系のいのちをお互いに認めあうという発想にたって、はじめて納得できるのではなかろうか。
 とかく空虚な響きとして耳をかすめがちな「生命の尊重」ということば――その意味をここまで掘りさげ、心の奥深く定着させ、それによって、日々の行動を規制してゆきたいものである。複雑に絡みあう集団と個の対立、個と個の対決によって、ますます非合理的存在者として生きてゆかねばならないよう運命づけられている私たち人間は、「生命の尊重」の決意によってのみ、将来の人類の繁栄が期待できるのではないかと、私には思えてならない。
 これについて思いだされることは、先年亡くなったアフリカの聖者アルベルト・シュバイツァー博士の説く、「生への畏敬」の精神であって、私の願いは、「われわれは、生きんとする生命にとりまかれた、生きんとする生命である。」という博士のきびしいことばに凝集している。
 そして、シュバイツァー博士のこの精神は、ダグ・ハマショールドの日記につづられた次のことばによって、よりいっそう高揚されている。
 「われわれの生きようとする意思は、生が自分のものかひとのものかを意に介せずに生きてゆこうと思うようになって、はじめて確固たるものになる。」 (時実利彦「人間であること」岩波新書)