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課題集 ペンペングサ の山

○自由な題名 / 池新
○この一年、新しい学年 / 池新

★先進国の後を追いかける(感) / 池新
 【1】先進国の後を追いかける途上国経済と、世界の先頭を走る先進国経済のもっとも重要な差は何かというと、「途上国経済では物まねができたけれども、先進国経済では自分で新しい知識を創造しないとそれ以上の発展ができない」ということである。【2】途上国の有利な点は、第一に、先進国モデルが存在し、容易に産業化のための目標がみいだせること、第二に、先進国から技術を導入できること、そして第三に、賃金など全体的なコストが先進国に比べて有利であることなどである。
 【3】このような有利性が存在しているかぎり、自らオリジナルな技術や知識を創造する必要性はそれほど高くない。先進国から使える技術を輸入し、それに安い賃金の勤勉な労働力を張り付けるだけで競争力を身につけることはできるだろう。【4】もっとも、これとてどこの国にでもできるほど簡単なことではないが、日本や現在急成長中の東アジア諸国はいずれもこのシナリオで成功してきた。
 しかし、日本についていえば、これらの好条件はすべて消滅したといってよいだろう。【5】十年ほど前に、日本経済は歴史的なコスト条件の逆転を経験した。またインプット拡大による成長にも人口の高齢化、労働力人口の減少、貯蓄率の低下などの理由から多くを期待することはできない。【6】その結果、日本は先進国の宿命すなわち自らの行く先を自らの創意工夫で切り開かなければならないという宿命を、好むと好まざるとにかかわらず背負うことになったのである。
 【7】日本の社会経済体制は、欧米に追いつき、追い越すという明治以来の国策にそって形成されてきた。たとえば、日本の教育制度は欧米の先進的知識を詰め込むことを目指して発達してきた。これはすばらしい戦略であった。【8】欧米と日本の間に、科学技術や近代思想などの点で大きな知識のギャップがあったのだから、まずはこのギャップを一刻も早く埋めることが必要であったし、そうすることがキャッチアップを効率的に進める唯一の方法であった。
 【9】しかし、日本がキャッチアップを終えた今となっては話は変わってくる。外来の知識を学ぶだけでは必ずしも独創的な知識は生まれない。日本の学校教育(とくに義務教育)はすばらしいという説があるが、それは少なくとも今日的観点からはとんでもない誤解である。【0】たしかに、先進国に追いつく目的のために、先生が生徒に∵知識の押し売り、詰め込みを強要することは理にかなっていたかもしれない。いや、欧米との巨大な知識ギャップを一刻も早く埋めるためには、大車輪で知識の吸収に努めなければならないことは当然であった。知識吸収を急ぐあまり、時に青年たちの独創性、オリジナルなものの考え方を育成するもうひとつの教育の重要な役割が多少なおざりにされたとしても、それはある意味ではやむをえなかったことといえるかもしれない。
 しかし、今日のように、自ら価値を創造することが要求される時代になっても、教育システムが本質的な意味で何も変わっていないとすればそれは大きな問題であろう。最近の教育改革論議は当然のことながらこのような観点からなされることが多い。しかし、教育の現場では、相変わらず先生が大教室で黒板に知識を羅列し、日本的な意味での「優秀な」生徒は、試験のときにそれを正確に再現することを要求されている。生徒の能力差や、興味の所在などは無視し、とにかく上から与えられた課題を、先生が決めたスピードでこなしていくことが「優秀な」生徒の絶対的条件である。極度に一律化された教育風景である。
 日本の教育現場で自分の頭で考えた独自の意見を前面に押し出すことが高得点につながるという話はおよそ聞いた試しがない。試験では先生が正解と認定する答を書くことが得策であって、先生の頭になかったようなユニークな答を尊重する風潮はない。生徒は一定の枠のなかで発想する習慣をたちまち身につけてしまう。このように「優秀な」生徒はいくつかの入試を経て、完璧なまでに「知識吸収型」の枠にはまった答しかできない受動的人間になってしまう。
 もちろん、若いときに知識をできるだけ多く吸収すること自体は将来の創造性にとって必要不可欠である。創造性の源泉がどこにあるのかは古くて新しい問題だが、頭のなかにたたき込まれた大量の知識が創造性を刺激することは間違いない。問題は、教室における教師と生徒の関係である。たとえば、生徒がまだ教えてもいないことを教室で発言することを嫌う教師は非常に多い。教師の能力や知識の範囲を超える生徒がいた場合、教師はそれを教師であることを∵盾に、権威でもって抑え込もうとする。
 受験塾では公立学校とちがって競争が厳しい。学校の教科より進み具合が早いことはもちろん、教える内容もはるかに進んでいる。塾で習ったことを教室に持ち込まれると、学校での教育進度や秩序が乱されるという理由もわからないではないが、できる生徒の好奇心を抑え込むのではなく、一人一人の能力や進度に応じて先生が対応し、知的能力を最大限に刺激することができるような教育体制をとることが本筋である。平均的な生徒をひたすら大事にする、あるいは落ちこぼれを出さないといったことにかまけるあまり、潜在的能力の高い優秀な生徒の頭を押さえつけるといった「平等主義的な教育思想」にそれなりの価値があることは認められなければならないが、それが独創的な人材の芽を摘みとっている危険についても十分な配慮が必要であろう。
 
(中谷巌著『日本経済の歴史的転換』)

○My local newspaper / 池新
My local newspaper recently ran a feature article headlined, "The Great American Bag Race," which I found both interesting and amusing in ways that neither the author nor the editor probably intended. The subject was the relative merits of paper and plastic grocery bags; the discussion included the reasons why many customers and grocers vehemently prefer one or the other, and the fierce economic competition between manufacturers of both.
Just a few years ago, practically all grocery stores in this country routinely stuffed a customer's groceries into paper bags. In the early Eighties, plastic bags began to replace them in some places. By the time I sat down to write this, the two competitors were running neck and neck, with roughly equal numbers of paper and plastic bags in use.
The article I mentioned reached no clear conclusion about which kind of bag was better overall, but it made clear that both kinds of bags contribute to the problems of resource consumption and solid waste disposal. The difference between them in terms of environmental impact is one of degree -- and, when you come right down to it, pretty trivial. Ironically, neither the author nor anyone quoted in the article even hinted that there might be another option that offers much more significant advantages over either kind of bag.