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課題集 ペンペングサ の山

★庭は原始社会では(感)/ 池新
 【1】庭は原始社会では、集団全体の広場でした。屋内ではいこい、庭では活動的な共同生活がいとなまれたのです。多くは部落の中央にあり、宗教的儀式、政治の集会がおこなわれ、また生活の場所でもありました。【2】――狩猟しゅりょう時代には呪術の踊りにわき、戦いにむかう精鋭が勢ぞろいし、農耕社会では、収穫処理の作業場所であり、また家畜の遊び場でもありました。やがて物々交換がさかんになると、そのための市場にもなった。それはあらゆる生活の幅をふくめた、集団社会の共通の広場でした。
 【3】しかし、やがて歴史がすすみ、階級制度があらわれはじめると、権力者占有の庭が出現します。ここでは、貴族たちがあつまって、政事、儀式をとりおこない、遊戯し、スポーツをたのしみ、もよおしものなどを観賞しました。【4】すでに一般庶民には閉ざされたものです。ふつうわれわれが考える「庭園」は、この段階からはじまると言っていいでしょう。
 わが国では、平安朝の寝殿南面の庭園というのは、このような性格を持っていました。【5】このころには寝殿からながめる美観として、池を掘り、中の島をきずき、石を組み、滝をおとしたりして遠景をととのえました。
 やがて歴史がくだるにつれて、禅宗の影響などもあり、庭園はしだいにしずかにながめるというだけのものにかわってゆきます。【6】すでに政治や競技の広場ではなく、活動的な生活よりも、幽邃な環境にかこまれて沈思瞑想するという、俗を離れた精神的な別世界をつくりあげたのです。こうなってくると、庭園はひどく観念的・趣味的になります。【7】そして、ようやく公共性をうしないはじめてくる。室町時代からの庭は、ほとんどそういう性格を持ってきます。
 形式はおどろくほど巧みに、複雑になって、一つの完成をしめしました。【8】伝統的技術は確立され、今日「日本庭園」といえば、まずこの時代の形式、あるいはその亜流以外は考えられないほど、以後の造園術、そして審美感を決定しています。ながい人間の歴史から見れば、これはかなり特別な、時代的なゆがみのはずなのです∵が。
 【9】徳川期に、めざましく勃興した富裕な町人階級がこれを受けつぎました。町なかの、土蔵や屋敷が立ちならぶなかに庭を取りいれたのです。この風習は、やがて、時代とともに、ついに棟割長屋の庶民階級にまでしみとおってゆきました。
 【0】めいめいが自分だけの庭をもつ。しかも、凝れば凝るほど、建物や塀の奥にかくして、外からはかいまみることもできないようにしてしまう。――アメリカあたりの典型的な市民住宅が道路に面した前面に庭をもち、そこはプライヴェートなものであると同時に街路の延長であり、公園的な役割をはたしているという近代性と、これはまことに対照的です。どんな小さいものでも、自分の領分だけを嫉妬ぶかくまもるという封建性が、象徴的にここに確立されてきたのです。
 このように、まったく公共性のない趣味にとじこもることによって、かつて見られた庭園の美的な高さ、きびしさ、純粋さをうしない、卑小な芸に堕してゆきました。(中略)
 構想の雄大さとか生活の幅というものはなく、かといって、階級自体の表情とか意欲というものもそこには見られません。たんに生活の虚栄的なアクセサリーになりさがっている。これが庭として、けっして本来の意味ではないことはたしかです。
 日本の庭がこういう封建的な伝統をつづけて固定したのにたいして、はやくから近代化した西洋では、一般市民は高層の集団住宅に住み、貴族の豪壮な庭園を開放して、公園として共同の庭を設備しました。たとえば、パリのルュクサンブールの庭は、かつては宮殿に付属していた典型的なフランス式庭園ですが、今日では広大な自然の中であらゆる層の人たちがそれぞれに楽しく利用しています。各種のスポーツはもちろん、学生はノートをひろげ、静かな木かげでは、若い男女が恋をささやいている。子供たちは縄とびや、ボール投げをして遊び、夫人たちはそのわきで編物に余念がない。老人は日向ぼっこをしながらベンチで新聞を読んでいます。午後のひとときには、音楽堂からのメロディーが庭いっぱいに流れる∵のです。
 われわれが考える公園はとかく道路の延長といった感じですが、これは親しいみんなの庭です。そこに集まってくる者だれでもの領分であり、生活の延長、ひろがりなのです。
 今日、もっとも進んだ建築家や都市計画者は「庭」を再発見し、現代生活にふさわしい機能的な共同の広場として新しく設計しようとしています。それこそ人間社会における庭本来の正しい意味をとりもどすことなのです。私はこれからの庭、市民生活における理想的な空間は、公共的であると同時にプライヴェートであり、運動的であるとともに休息的、しかもきわめて芸術的であるべきだと思います。
 庭園は、それ自体が造形される空間です。建造物であり、彫刻であり、また音響の遊びもあります。眺めると同時に触れるものであり、静止していると同時にきわめて動的な相貌をもおびる。自然であり、また反自然でもあるのです。さらにその中にあらゆる芸術を総合して取りいれることができます。絵を置き、彫刻をあしらう。歌い、舞う、可能的な芸術空間です。
 そういう本当の庭、そしてそのあり方について、ここでは展開するつもりはないのですが、しかしこの根本的なポイントだけは、しっかりとつかんでおきたい。そういう現代的な気がまえをとおして名園を観察し、批判しなければなりません。でないと古い伝統芸術がひとしく持っているせまい趣味性、その魔術につい引っかかり、庭園にメスを入れたつもりで、逆にその時代色の中にふみまよってしまうことになりかねないからです。

(岡本太郎『日本の伝統』による。)