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課題集 ワタスゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○マスコミ / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○一九世紀の自由主義は / 池新
 一九世紀の自由主義は、危険とは誰の目にも見えるもので、危険回避は各自の自己決定に委ねればいいという考え方に立脚していた。危険の経験的自明性と自由主義は内側でつながっていた。すなわちJ・S・ミルの『自由論』が出された一八五九年には、見えない微生物が危険だという医学思想はまだ成立していなかった。病原体説の成立は、コッホによる結核菌の発見が一八八二年であり、パスツールによる狂犬病研究が一八八〇年以降である。自由主義の原則は、危険の経験的自明性というある意味では誤った想定の上に作られてしまった。
 その後、われわれは見えない危険の時代を迎えることになった。自動車を走らせると地球が温暖化する。だれもその因果関係を見ることはできない。手に取った黒土のひとかたまりにダイオキシンがどれだけ含まれているか、見ることはできない。トウモロコシDNAの中の危険な塩基配列も見えない。吹き寄せる風のなかの放射能も見えない。
 現代で安全性を理解するためには、「地球全体で人間が空気の中にすてる炭酸ガスが原因になって地球が温暖化し南極にある氷河が溶けて、二〇年後に太平洋のなかの珊瑚礁の国を水没させる」ということを理解しなくてはならない。
 この文章の中には見えないものがたくさんある。「地球全体」は見えない。「空気の中にすてる炭酸ガス」は見えない。「地球の温暖化」は見えない。「炭酸ガスという原因による温暖化という結果」は見えない。「南極の氷河」は見えない。「二〇年後」は見えない。「太平洋のなかの珊瑚礁」は見えない。それではどうして「ゴミをへらせば地球を守ることになるのか」が分かると言えるだろう。もしも、「疑わしいことを信じてはいけない」というタテマエを守るなら、「ゴミをへらせば地球を守ることになる」と信じてはいけないという結論になるのだろうか。
 そこで真理をつきとめることにしよう。「科学的真理は何度も同じ条件で実験を繰り返すことによって確かめられる」というタテマエにしたがうとする。石油をたくさん燃やして何度も実験をして見たら、「地球に砂漠が増える」、「たくさんの生物が絶滅する」、「人間が生きていくための地下資源がなくなる」、「地面の下がゴミだらけになって水が飲めなくなる」という結果が起こったと仮定∵しよう。やっぱり「ゴミをへらせば地球を守ることになる」というのは正しかったという結論がでるだろう。しかし、そのことを確かめる人間は、生き物のいない砂漠で食べ物も水もないという状況にいるかもしれない。
 「ゴミをへらせば地球を守ることになる」が本当かどうか。何度も繰り返して確かめることができない。環境問題は日常の経験だけでは判断がつかないので、高度の専門的な知識を学ばなくてはならない。情報依存的にしか因果関係は把握できない。悪い結果がでてしまった後では取り返しがつかないので、後悔しないですむように情報を捉えて事前に予防しなくてはならない。
 どんな事柄でも「悪い結果がでないように完全に予防すること」はとてもむずかしい。「風邪の予防」の場合には、予防に失敗してもあまり心配はいらない。予防に失敗しても風邪は必ずなおるからである。ところが「砂漠が増える」とか「珊瑚礁が水没する」とか「明日から使う石油がない」とか「鯨が絶滅する」とかということは、予防に失敗したら永遠に取り返しがつかない。完全予防という側面からも安全の情報依存が成立する。
 ベックは、その『危険社会』(一九八六年)で「ヒューム以後明らかとなったように、因果関係は本質的に知覚を通じては推定できない。因果関係の推定はあくまで理論に基づくのである」と述べている。
 安全性について情報依存型の社会を作りあげることなしには、われわれは安全を確保できない。安全性は古典的自由主義のタテマエからすれば自己決定権の範囲に含まれる。これは自分の生命の自己防衛権と同種のものと受けとめられている。実際には、安全であるか否かは経験的に自明ではなく、信頼できる情報に依存している。

 (加藤尚武『価値観と科学/技術』)