昨日523 今日338 合計155202
課題集 ワタスゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ペット / 池新

○耳にピアスをしている若者が / 池新
 耳にピアスをしている若者が目につくようになって久しい。以前は女性でさえイヤリングはしてもピアッシングまではしなかったものだが、最近はピアスをしている男性が少しもめずらしくなくなってしまった。
 ことは日本に限らない。中国にはつい五十年ほど前まで弁髪もあったし纏足もあった。西洋にしたって同じだ。三百年ほど前には、たとえば女性は額を大きく削り上げていたのである。コルセットにいたっては今世紀初頭まで残っていた。身体を傷つけないことこそ文明であると見なされるようになったのは、つい最近の出来事にすぎなかったわけである。おそらく、十八世紀の啓蒙主義以降のことと言って大過ないだろう。その段階で文明に関する考え方が大きく変わったのだ。
 いうまでもなく、動物は自分の身体を傷つけない。ただ人間だけが傷つけるのだ。とすれば、身体加工こそ人間の特徴、すなわち文明であるということになる。ピアスをしたり、毛髪を特殊なかたちにしたりする若者は、したがってきわめて人間的であり、文明的であるということになる。ちょっとした逆説である。
 刺青でも抜歯でもいい。人間が人間になったのは、明らかに自分の身体を傷つけることによってである。それではなぜ人間は自分の身体を加工するようになったのか。自分が自分であることを確かめたいため、社会における自分の位置を明らかにしたいためだ。とすれば、人間は自分が自分であることを確かめずにはいられない存在なのだということになる。逆に言えば、人間は、確認しないかぎりは、自分が自分ではない存在なのだ。
 これはとても興味深い事実だ。なぜならそれは、人間はじつは何にでもなれる存在だということだからである。狐にでも狼にでもなれる存在、木にでも石にでもなれる存在だということだからだ。実際、憑依現象は人間の文化と切り離しがたく結びついている。
 憑依現象といえば、まるで未開や野蛮の典型のように響く。だが、そんなことはない。むしろ文明の発端なのである。類人猿に憑依現象はない。人間は、巨大集団を形成することによって他の動物には見られない力を発揮してきたが、それが可能になったのはこの憑依現象によってなのだ。宗教や芸術の根底にも同じ憑依現象が∵あると言っていい。
 自分が自分であることを知るには、他人にならなければならない。人間の自己意識の仕組みは、そのまま社会の仕組みに重なっているのである。人間の社会が類人猿の社会から飛躍したのはこの仕組みによってだが、そのもっともカンメイな表れが憑依現象だったわけだ。自己とは小さな憑依現象であり、社会とは大きな憑依現象であると言いたいほどだ。だからこそ人間は、憑依現象の一形式としての舞踊を、そして演劇を発明したのである。
 難しいことではない。要は、人間は何にでもなれるということにすぎない。けれど、この自由はそのまま不安をも意味している。身体加工は、何にでもなってしまいかねない自分というものを、あるひとつの何かに固定する技術として成立したのである。とすれば、いま若者たちが自分の身体を加工することに熱中していることの背後にも、同じ不安が潜んでいると考えるべきだろう。
 問いはしたがって、若者たちに向けられるよりは、身体加工をしなくなった人間たちに向けられるべきなのだ。なぜ人間はこの二百年ほど不安を感じなくなったのか、と。
 身体加工は啓蒙主義の頃から廃れはじめた。おそらくその頃から、自分は人間であると信じるだけで、不安がある程度は解消されるようになったのである。人間は生まれたままの姿こそもっとも美しい。これが人間主義すなわちヒューマニズム時代の標語だった。だがおそらくいまや、自分が人間であるといった程度のことでは不安が解消されなくなってしまったのだ。科学技術の驚異的な発展とともに、人間はついに自分たちの不気味さに本格的に気づきはじめたとでも言おうか。
 膨大な情報の洪水のなかに溺れながら、いま人間はふたたび、原始時代と同じ不安にさいなまれはじめているように思われる。

 (三浦雅士『考える身体』)