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課題集 ワタスゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○地域社会 / 池新
○私の描く未来の社会、紙 / 池新
○怠け者でいくじなしの / 池新
 怠け者でいくじなしののび太は、ドラえもんの道具さえ使えば何でもできると思い、ますます努力を怠る傾向がみえる。ドラえもんの道具に依存症を示し、ドラえもんはそれを嘆きつつも、友であるのび太に奉仕せずにはいられない。いつも最後にはのび太が道具の使い方を誤ったり、悪用して問題を引き起こし、しっぺ返しを受ける。どんなにすぐれた道具を与えても、誤用し悪用するのはいつも人間だというのだ。底知れぬ力を秘めた道具を不用意に貸し与えたドラえもんがとがめられないという問題はあるにしても、人間のドラえもんに対する絶対的な信頼は、ここに起因している。
 アトムはことあるごとに自ら飛んで行って、すべて自分一人でやろうとする。それは、ひとつの動力から発生する力を歯車やベルトコンベアで分配して使うのと同じ発想で、アトムは工業時代の原理を体現している。しかし、力だけならばロボットの助けを借りるまでもなく、ガンダムのバトルスーツや『エイリアン2』のパワー・ローダーのように、自己の力を増幅する方法を既に人間は思いついている。または『ロボコップ』のように自分をサイボーグ化する方法もあるかもしれない。
 一方、ドラえもんは自分が何かを行うのではなく、心を持ち合わせていない道具に機能を託して、それを人間に使わせる。アトムは何かをなす判断を自らが下したが、ドラえもんは道具の機能に精通し、必要な道具を取り出して、その使用方法を説明するだけだ。その意味では、ドラえもんは最上のマニュアルであり、生き字引ならぬ生きマニュアル、ウォーキング・マニュアルなのだ。道具を使用するかどうかの判断は、あくまでも人間に委ねている。ドラえもんの場合には機能を道具化することによって、心をもった人工物のフェイル・セイフを施しているのである。アトムにはそれが欠落していた。
 最近ではSFが、科学技術に遅れをとった裏返しとして、過去の技術に注目するようになっている情報技術の革命を経験することなく、過去の蒸気機関や時計じかけの技術がそのまま発展していたらどうなっていただろうかという設定の作品が増えている。こういった設定を、サイバーパンクに引っかけて「スティームパンク」と呼ぶらしい。この種の古典としてはいうまでもなく『メトロポリス』があるが、最近のスティームパンクの作品としては、ウィリアム・∵ギブスンとブルース・スターリングの『ディファレンス・エンジン』、宮崎駿はやおの『天空の城ラピュタ』、ティム・バートンの『シザーハンズ』などがある。『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』の蒸気機関車のタイムマシーンや、『未来世紀ブラジル』にも、スティームパンクの傾向が表れているし、古いところではチェコスロヴァキアの映画『悪魔の発明』がある。スティームパンクが描く古風な機械は、機能が顕在化しているので視覚化しやすい。スティームこそ出していないが、ロケット噴射で実際に移動をして、せっせと活動している姿を描く『鉄腕アトム』は、スティームパンクなのかもしれない。
 コンピューターを使いやすくするために、エイジェントというものが提唱されている。一九八八年にアップル・コンピューター社が未来のマシーンを構想して視覚化したビデオクリップ「ナレッジ・ナヴィゲーター」では、エイジェントが使われていた。蝶ネクタイをした男性の秘書がディスプレイ上に現れて、外部データベースを検索したり、かかってくる電話を選別する。
 人工知能を利用した一種の秘書であるが、あえてエイジェントと言って人工知能と区別しているのは、決断はあくまでも人間が行なうからである。本人の代理としてエイジェント同士で会話した場合、どうなるのかという気がするが、エイジェント同士での取りきめはできないようになっているのだろう。エイジェントは使用中に利用者の特性を記憶してゆく。エイジェントを「雇用」する利用者は、特定の個性を持つエイジェントを選ぶことができる。
 高度成長時代の担い手が、テクノロジーの粋を集めたロボット、鉄腕アトムを見て育ったように、われわれの子どもは、すべてを成し遂げるエイジェントであるドラえもんを見て育っている。『鉄腕アトム』がロボットに対する心理的抵抗をなくした後、日本ではロボットが急速に普及した。それと同じように、ドラえもんはエイジェント普及を先導しているのだろうか。

 (浜野保樹『中心のない迷宮』)

○■ / 池新