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課題集 ワタスゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○他人を気にする / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○新しい言葉の指す / 池新
 新しい言葉の指す新しい事柄を人はどうやって理解するのか。そこにはほとんど常に、既知の事柄へのなぞらえという作業があるのではないだろうか。こうした観点から「なぞらえ」が人の概念体系の根底にあることを説くのがレイコフとジョンソンである。
 彼らの共著『レトリックと人生』の主旨を一言で要約するなら、「われわれが普段、ものを考えたり行動したりする際に基づいている概念体系の本質は、根本的にメタファーによって成り立っている」ということである。彼らの言う「メタファー」は表現技巧としての隠喩ではない。理解や思考のための方略である。彼らの規定によれば「メタファーの本質は、ある事柄を他の事柄を通して理解し、経験することである」。この「メタファー」を日本語にするならば、「隠喩」よりも「なぞらえ」という方が適切であろう。即ち彼らのメタファー論とは、なぞらえ論にほかならない。「筆者らは人間の思考過程の大部分がメタファーによって成り立っていると言いたい」という彼らの主張は、人の思考がロゴスよりも「なぞらえ」に依存しているということである。
 彼らは「概念」を、「固有の属性」によって定義されるものではなく、むしろ各人にとっての意味であり、従って各人が理解しているもののことであると考える。そして、ある概念についての私たちの理解は、その大部分が他の概念へのなぞらえによってなされているとする。ただし、それは一観念を他の一観念と比較することではない。「理解というものは、経験の領域全体に基づいて生ずるのであって、個々の観念に基づいて生じるのではない」からである。言い換えれば、私たちが理解するものはコトの経験という全体であって、個々の観念はその構成要素にすぎない。むしろ観念はそのコトの中に位置づけられることによって意味を得るのである。「なぞらえ」とは、既に理解ずみの経験領域に基づいて未知の経験領域を理解することである。そこで理解されるものは、二つの領域に共通する経験の「型」である。これをレイコフらは「経験のゲシュタルト」と呼ぶ。「なぞらえ」とは、ある領域に、別の領域の「経験の∵ゲシュタルト」をあてはめて、その事柄を理解することなのである。たとえば「議論」についての理解は「戦争」のメタファーに基づいていると彼らが言うとき、それは議論というコトの経験の領域全体、即ち開始があり、敵と味方があり、攻撃と防御があり、勝利と敗北があるという、議論経験の全体が「戦争」と同じ構造をもつものとして理解されているということである。
 さらにレイコフらは言う。
 「重要なことは、私たちは単に戦争用語を用いて議論のことを語っているだけではないということである。議論には現実に勝ち負けがあり、議論の相手は敵とみなされ、相手の議論の立脚点(=陣地)を攻撃し、自分のそれを守る。優勢になったり、劣勢になったりする。戦略をたて、実行に移す。自分の議論の立脚点(=陣地)が守りきれないとわかれば、それを放棄して新たな戦線をしく。議論の中でわれわれが行うことの多くは、部分的ではあるが戦争という概念によって構造を与えられているのである。」
 もちろんレイコフらが念頭においているのは英語の「議論」の概念だが、日本語でも事情は変わらないだろう。もっとも文化が違えば概念が違うことはありうる。そこで彼らは「議論」を「ダンス」のメタファーによって理解している文化を想像してみる。論者は踊り手とみなされ、議論の目的は見た目に美しく論じあうことになる。多分人々は議論について「息が合わない」とか「創造性に乏しく単調だ」とか「中だるみはあったが最後はうまく決まった」などと語るだろう。そして言うまでもなく、概念の異なる文化においては、行動も異なるであろう。
 「われわれは議論を戦争とみなし、戦争をするような議論の仕方をするが、彼らはダンスとみなして、ダンスをするような仕方で議論をする、ということになるであろう。」
 私たちの概念のほとんどは、他の概念への「なぞらえ」によって理解されているということである。従って、私たちの概念体系は「なぞらえ」を原理として構築されているということである。

 (尼ケ崎彬の文章)