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課題集 ワタスゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○誤解 / 池新

○タクシーに乗って / 池新
 タクシーに乗って、運転手と会話を交わす。そのような時、私たちは、当たり障りのない話題を選ぶ。今年のプロ野球はどうだとか、最近景気はどうですかとか、だれでもある程度興味を持つような、そしてあまりプライベートなことにかかわらないような話題について、いつ止めてもいいような形で会話を交わす。このような時、多くの人にとって、タクシーという、見知らぬ他人がいきなり密室の中で一緒になって五分や十分の時間を過ごさなくてはならないという状況でしか生まれないような「モード」あるいは「パーソナリティ」が現れる。だからこそ、私たちは、タクシーを降りた時に、「今まで快活な会話を交わしていたあの私は何なのだろうか?」という疑問とともに、ふーっと「我に返る」ような感覚を持つ。
 私たち人間は、その日常におけるふるまいをじっくり観察してみると、必ずしも常に同じ「自分」を貫いているわけではない。友人としゃべっている時、恋人としゃべっている時、学校や会社の同僚としゃべっている時、コンビニの店員としゃべる時、迷子の子供に名前を聞いている時、ホテルに予約の電話をかける時、……それぞれの時に、少しずつ異なる自分が立ち上がっていることは、少し自省してみれば、明らかなことだろう。このように、状況に応じて少しずつ異なる自分が立ち上がることを、私たちは通常「ふり」をするとは言わない。「ふり」をするということは、「よいカードが来たのにポーカーフェースをする」、「誰かのマネをする」、「知っているのに知らないふりをする」など、かなり意図的に自分の行動を偽装する場合に限られると普通は考えられている。しかし、私たちの日常の行動を観察してみると、実はそのような意図的な場合以外にも、あらゆる場面において普遍的に「ふり」が成立していることがわかる。
 以上のようなことを考えると、「ふり」をするということを、「意図的に何かのマネをする、意図的に何らかの心の状態を偽装する」というような狭い意味でとらえるのではなく、より広い意味で再定義する必要がある。その際、鍵になるのは、「そうしないこともできるのに、そうしている」ということである。タクシーの運転手と会話している時、私たちは愛想よくプロ野球の会話をしないでおこうと思えばそうできるのに、会話している。もちろん、「そう∵しないこともできる」という可能性を、常に意識しているわけではない。意識した場合には、より狭義の「ふり」(pretend)に近いと言えるが、意識していない時も、狭義の「ふり」をすることに近い何かが認知プロセスとして進行しているのである。
 「そうしないこともできるのに、そうしている」というのは、まさに、子どもが「ごっこ遊び」をしている状況にあてはまる。怪獣のふりを止めようと思えばいつでも止められるのに、あえて、「ガオー」とか、「やられたあ」などと叫ぶ。はたから見れば、なんでそんなことをしているのだろうと思えないわけでもない。しかし、同じことは、「ごっこ遊び」とは一見無関係な、タクシーの中や、学校の授業や、会社や、家庭や、電車の中や、それこそ人間社会のありとあらゆる場面で見られる。
 母親は、母親でないようにふるまうこともできるのに、子どもを前にすると、あたかも母親のようにふるまう。同じ母親が、学生時代の同級生と喫茶店で会う時は、キャッキャッと笑ってまるで女の子のようになる。だったら、なぜ、自分の子どもを前にキャッキャッと笑ってまるで女の子のようにならないのかといえば、まさに「そうしないこともできるのに、そうしている」、あるいは、もっと強い何らかの力によって、母親であるという「ふり」を、半ば無意識のうちに自然にしている(させられている)のである。
 このように考えれば、「そうしないこともできるのに、そうしている」という意味での「ふり」という現象は、それこそ朝起きてから眠るまで、人間が生活している現場で常に起こっている普遍的な現象であるということがわかる。さまざまな「ふり」の間を柔軟に行き来できるということが、私たち人間のすぐれた特性であると言うこともできるのである。

 (茂木健一郎の文章)

○■ / 池新