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課題集 ワタスゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○学問の意義、自己主張の大切さ / 池新

○研究に限らず、大事業の成功に / 池新
 【1】研究に限らず、大事業の成功に必要な三要素として、日本では昔から「運・鈍・根」ということが言われている。科学者の伝記を読むと、その人なりの「運・鈍・根」を味わうことができる。
 【2】「運」とは、幸運(チャンス)のことであり、最後の神頼みでもある。「人事を尽くして天命を待つ」と言われるように、あらゆる知恵を動員することで、逆に人の力の及ばない運の部分も見えてくるようになる。【3】人事を尽くさずにボーッとしているだけでは、チャンスを見送るのが関の山。運が運であると分かることも実力のうちなのだ。
 【4】次の「鈍」の方は、切れ味が悪くてどこか鈍いということである。最後の「根」は、もちろん根気のことだ。途中で投げ出さず、ねばり強く自分の納得がいくまで一つのことを続けていくことも、研究者にとって大切な才能である。【5】論文を完成させるまでの数々の自分の苦労を思い出してみると、「最後まであきらめない」、という一言に尽きる。山の頂上をめざす登山や、ゴールをめざすマラソンと同じことである。
 【6】それでは、なぜ「鈍」であることが成功につながるのだろうか。分子生物学の基礎を築いたM・デルブリュックは、「限定的いい加減さの原理」が発見には必要だと述べている。
 【7】もしあなたがあまりにいい加減ならば、決して再現性のある結果を得ることはなく、そして決して結論を下すことはできません。しかし、もしあなたがちょっとだけいい加減ならば、何かあなたを驚かせるものに出合った時には……それをはっきりさせなさい。
 【8】つまり、予想外のことがちょっとだけ起こるような、適度な「いい加減さ」が大切なのである。このように少しだけ鈍く抜けていることが成功につながる理由をいくつか考えてみよう。
 【9】第一に、「先があまり見えない方が良い」ということである。頭が良くて先の予想がつきすぎると、結果のつまらなさや苦労の山の方にばかり意識が向いてしまって、なかなか第一歩を踏み出しにくくなるからである。【0】
 第二に、「頑固一徹」ということである。「器用貧乏」や「多芸は無芸」とも言われるように、多方面で才能豊かな人より、研究に∵しか能のない人の方が、頑固に一つの道に徹して大成しやすいということだ。誰でも使える時間は限られている。才能が命じるままに小説を書いたりスポーツに熱中したり、といろいろなことに手を出してしまうと、一芸に秀でる間もなく時間が経ってしまう。私の恩師の宮下保司先生(脳科学)は、「頑固に実験室にこもる流儀」を貫いており、私も常にこの流儀を意識している。
 第三に、「まわりに流されない」ということである。となりの芝生はいつも青く見えるもので、となりの研究室は楽しそうに見え、いつも他人の仕事の方がうまくいっているように見えがちである。それから、科学の世界にも流行廃りがある。「自分は自分、人は人」とわり切って他人の仕事は気にかけず、流行を追うことにも鈍感になった方が、じっくりと自分の仕事に打ち込んで、自分のアイディアを心ゆくまで育てていけるようになる。
 第四に、「牛歩や道草をいとわない」ということである。研究の中では、地味で泥臭い単純作業が延々と続くことがある。研究は決して効率がすべてではない。研究に試行錯誤や無駄はつきものだ。研究が順調に進まないと、せっかく始めた研究を中途で投げ出してしまいがちである。成果を得ることを第一として、スピードと効率だけを追い求めていては、傍らにあって、大発見の芽になるような糸口を見落としてしまうかもしれないのだ。(中略)
 頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからである。怪我を恐れる人は大工にはなれない。失敗を怖がる人は科学者にはなれない。(中略)
 頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうして唯々大自然の直接の教えをのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。

 (酒井邦嘉くによしの文章)

○■ / 池新