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課題集 ワタスゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○優しさと厳しさ / 池新

○一九二〇年代は / 池新
 一九二〇年代は弁士の黄金時代である。彼らはフィルムの物語をなぞるというよりも、ときに即興的な説明をもって逸脱を行ない、観客の物語受容による映画体験を自在に操作した。観客はフィルムよりも弁士の人気や好みに応じて、映画館に通った。邦画に関していえば、弁士たちは映画の制作者に対して、自分たちのパフォーマンスが効果的になされるように、注文をつけることさえできた。こうして日本映画はハリウッド(およびそのシステムに追随する世界中の映画界)とは別のシステムのもとに、独自の発展を続けた。
 だが一方で、特権的な声のもとに観客を自在に操作できる弁士という存在は、きわめて政治的な役割を担うこともあった。植民地下の朝鮮では、しばしば『国民の創生』(グリフィス、一九一五)や『十戒』(C・B・デミル、一九二三)の解説を務めた弁士が観客にむかって民族主義を昂揚させるような演説を挿入し、立合いの日本人警察官に中止を求められた事件があった。日本ではある時期から弁士は免許制となり、国民に忠孝の愛国思想を訓導することを要求されるようになった。

 一九一九年前後に「キネマ旬報」をはじめとする多くの映画雑誌が創刊されると、そこに集まった知識階層の批評家たちはいっせいに弁士制度を攻撃した。彼らの説によれば、弁士はフィルムが本来的にもっている物語をいとも軽々しく変形してしまい、平気で余計な脱線をよしとしてしまう、映画の破壊者ということになる。しかも彼らは西洋文化に無知であるため、説明に間違いが多い。無声映画はそれ自体として芸術的に完成しているべきなのに、それを落語や講談に近いものに引きずりおろしてしまう。したがってもしどうしても弁士が必要であるというのなら、あくまでもフィルムの補足説明の域を脱してはならない、との主張である。なるほど、こうした批判に応えて、弁士のなかには単に補足説明に徹しようとした動きも、あるにはあった。しかしながら、大衆の好みはどこまでも文飾多く、声の表情の豊かな弁士に集まった。映画評論家が弁士にかくも苛立った原因は、今から見ればあきらかである。弁士が∵(文字言語による批評の対象たるべき)フィルムのテクストを、一義的に決定することを大きく妨げているからだ。
 現在の地点に立つならば、少なくとも次のことがいえる。
 弁士は単純に先行して存在するフィルムを従属的に解説する人物ではなく、むしろフィルムを歪曲しながら破壊してしまう存在であった。彼は観客の映画体験を自在に操ることができたばかりか、制作サイドに対しても一定の発言権をもち、日本映画を、無声の自己完結をもってよしとするハリウッド映画とは異なった方向へと発展させるのに効があった。リュミエール以来、映画がすべからく表象の次元で止まっていたとき、唯一日本だけが表象を越えた現前の次元に到達できていたとすれば、それはひとえに弁士があってのことである。そして、こうした事実は日本人の映画体験を確実に独自のものにしている。なんとなれば、彼らはまずフィルムよりも弁士によって、観に行く作品を決定したからである。弁士の発明は日本文化にとって、漢字から平仮名やカタカナを発明したことに匹敵するほど意味のあることではなかっただろうか。(中略)
 弁士の時代はもうとうに過去のものになったと、一般的には信じられている。しかし、映像を素材とするパフォーマーと考え直した場合、このジャンルには映像テクノロジー時代を生きるわれわれの求める、新しい演劇様式の可能性が眠っていることは否定できない。現在、日本には、松田春翠しゅんすいの弟子でただ一人、澤登さわと翠という弁士が存在している。

 (四方田犬彦『映画史への招待』)

○■ / 池新