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課題集 ワタスゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ライバルの大切さ / 池新

○生物の遺伝的複製技術という / 池新
 【1】生物の遺伝的複製技術という意味でのクローニングは、衝撃ではない。誰でも知っている、植物のいちばん簡単なクローニングは、「さし木」というかたちである。動物の場合は、さし木というわけにはいかないが、体の一部分から全体が再生するものはいる。【2】人間も含めた脊椎動物にとって、最も身近なクローニングは、一卵性双生児である。それほど頻繁に起こるわけではないが、しかしひとつの受精卵に由来し、しかも同一の子宮で育つ一卵性双生児が存在することは、古くから知られている自然界の出来事である。【3】この点では、体細胞の核移植により作られ、母親とは別の胎内で育てられてできている羊や牛のクローンなどよりも「完璧な」クローンであると言える。
 【4】羊や牛のクローニングが社会的に衝撃を与えたのは、言うまでもなく動物の核移植クローニングという技術が、人間にも応用されるのではないか、そして、ひとりの人間から、大量にコピーが作られるのではないかという憶測と危惧のためである。【5】同じ遺伝子だから同じ人格が作られるという憶測である。一卵性双生児でさえ、それぞれに独立した別個の人格を認めていることを考えれば、このような遺伝子決定論が間違いであることは明白である。【6】にもかかわらず、人間の大量コピーというイメージが一般化したのは、特に合衆国において、遺伝子を絶対視し、環境因を軽視する傾向があるためでもある。【7】このことをスティーヴン・J・グールドは、「生まれ」に気をとられるばかりに「育ち」の重要さを見落としている社会の危険性として早々と指摘していた。
 【8】「ドリー」のニュースをはじめ、その後各国で報じられるクローニング成功のニュースに接するたびに、わたしの脳裏に浮かびあがる「複製」のイメージがある。一九九三年(平成五年)秋、伊勢神宮で見た光景である。【9】この年は二十年に一度の「式年遷宮」の年にあたるが、そのクライマックスである「遷御せんぎょ」の日、内宮のなかを撮影しながら、日の落ちる夕刻まで歩いたことがあった。【0】二十年ごとに御正殿ごしょうでんをはじめ、神宮すべての神殿から神宝∵までを新しく作り替える「式年遷宮」は、簡単に言えば神々のお引越しであるが、わたしには、それが形態的には一種の複製の儀式のように見えたのである。建築的には耐用年数にいたらない二十年というサイクルで、いっさいの神殿がまったく同じ技法と形態のもとに作り替えられる理由については、いくつもの説があるが、現実的な意味で説得力があるのは、「唯一神明造」と呼ばれる建築様式の知識と技法を伝承してゆくための期間として、二十年が適当であったのではないかというものである。確かに平均寿命が現在よりもずっと短かった時代に、親から子へ、複雑で精緻を極めた建築技法を伝えるには、十年では短かすぎ、かといって三十年では長すぎたのかもしれない。いずれにしても、「式年遷宮」という儀式の二十年という社会的時間が、世代間の知識の伝承という時間に関係しているという説は、できたばかりの白木の神殿をレンズ越しに眺めながら、すんなりと受け入れることができたのだった。(中略)
 「式年遷宮」における広い意味での様式の「複製」は、その背後に人生と社会が取りもつ「時間性」があるが、核移植クローニングによる人間の「複製」には、この「時間性」が欠落している。クローンである親から生まれた再クローンの牛が誕生している今日、クローニングを重ねるごとに、細胞が若返る可能性があるという研究報告さえ出てきているが、結果の当否は別にして、現在わたしたちが目の当たりにしているクローニングとは、これまでの生物が性を介して営んできた「時間性」に、根本的な変更を要請するものではないだろうか。クローニングの登場によって「適齢期」という言葉が死語になるとは思わないが、しかしおしなべて生物は、「しかるべきときに、しかるべきことを」しながら世代を継いできたのだ。それは「しかるべきときに、しかるべきことを」という性の規則を、時間性として社会に組み込んできた人間にとって、「適齢」の意味を改めて問い直させるものではないかと思う。

 (港千尋の文章)

○■ / 池新