昨日394 今日322 合計153076
課題集 ワタスゲ3 の山

○自由な題名 / 池新
○言語と映像 / 池新
★疑問を持つことの大切さ、ゴミ / 池新

○洞察やひらめきによって / 池新
 洞察やひらめきによって今まで見えなかったことが弁別できる、わからなかったことが腑に落ちるということは誰でも経験することである。しかし、だからこそ、私たちはそこに介在している暗闇への跳躍に驚くことを忘れ、ついつい陳腐な数直線的時間観へと自分の生を写像してしまう。
 しかし、本来、生というものは「一瞬先はわからず」「一瞬前は取り返しのつかない形で確定している」ということの繰り返しであり、そこに最大の驚異があるはずだ。たとえ一日の短い時間の中でも、不確定から確定への跳躍がその中にいくつあるかということを思えば、そこには真に瞠目すべき私たちの人生の、そして意識の流れの属性がある。(中略)
 無限というものを、一気に俯瞰できるようなその仮想の実体においてとらえるのではなく、可能体においてとらえること。1、2、3、……という自然数の数え上げにおいて、ある数の次にまた数があるということ自体が無限を保証しているように、私たちの生もまた、この瞬間の次に何が起こるかわからないという点において無限を保証されているということを直視すること。たとえ、その不確定性の中に自らの死というアクシデントが含まれていたとしても、その死への自由をも含む「何が起こるかわからない」という事態こそが、自然数の数え上げのごとき可能無限を担保する。
 一日のうちに含まれる可能無限と、長き一生のうちに含まれる可能無限は、その質において同等である。そのような覚醒と覚悟を持って生きる時、永遠の命とは決して数直線のようなメタファーの中にとらえられるものではないということが首肯される。
 死のとこに就いた人の哀しみは、「次の一瞬に何が起こるかわからない」という意味での不確定性の幅が次第に狭まっていく点に由来する。確定したものとして未来の出来事を知ってしまった男が直面するであろう自由意志のパラドックスとどこか似ている。たとえ残りの時間が物理的な意味において少ない場合でも、「次に何が起こるかわからない」という不確定から確定への跳躍のときめきを∵胸に秘する限り、私たちは無限のオーラに包まれて生きることができる。死という文脈が次第に自分の身体をがんじがらめにしてしまっていく時、私たちはかつて自分が持っていた自由意志という幻想が劣化し、不確定性の白い光が次第に弱まっていってしまうことを存在の奥底から哀しむ。
 創造性とは、つまり、未来はあらかじめ読めないということのもっとも純粋なる表現である。世界が今までとは違った場所に見えるということ。そのような認識論的革命への志は、生きる衝動の素直な表現になる。だからこそ、ピカソやアインシュタインといった創造者は、生を本来の意味において全うしているように見える。
 カフカがその小説の中で描くような形式主義に従う惰性の人がもはや生きてはいないように思われるのは、不確定から確定への跳躍の欠如においてである。跳躍への感性が失われる時、人生は本当に有限のものになってしまう。
 現代の脳科学は、感情を不確実性への適応戦略としてとらえる。しかし、不確実性を、アンサンブル(集合)の要素の完了した数え上げの結果としての確率論の枠組みでとらえている限り、生の一回性の本質をつかみとることはできない。
 かつて、神はサイコロを振らないとアインシュタインは言った。確率論的世界観と、決定論的世界観の間の齟齬は、量子力学の観測問題を初めとして、いまだ解決されていない困難な問題のいくつかに接続している。生における一回性を、可能無限の一つの表現として見る時、そこには明らかにまだ考え詰められてはいない思考の豊饒への入り口がある。その抽象的思考は、ランドセルを初めて背負った幼き自分の生の切なき一回性を引き受けることにもつながっているはずだ。
 不確定から確定への命がけの跳躍に寄り添う時、太陽が地平線に沈む一瞬を見る人の心にも無限は訪れる。

 (茂木健一郎『思考の補助線』)