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課題集 ワタスゲ2 の山

★消費者はもはや(感)/ 池新
 【1】消費者は、もはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットとかかわることになる。洗濯機、冷蔵庫、食器洗い機等は、道具としてのそれぞれの意味とは別の意味をもっている。【2】ショーウィンドウ、広告、企業、そしてとりわけここで主役を演じる商標は、鎖のように切り離し難い全体としてのモノの一貫した集合的な姿を押しつけてくる。【3】それらはもはや単なるひとつながりのモノではなくて、消費者をもっと多様な一連の動機へと誘う、より複雑な超モノとして互いに互いを意味づけあっているが、この限りにおいてはモノはひとつながりの意味するものなのである。(中略)
 【4】ある種の人々の見解からは、当惑が顔をのぞかせている。「欲求は、経済学が関与するあらゆる未知の要素のなかでも、最もしつこく未知なるものである」(ナイト)。【5】しかし、こうした当惑は、マルクスからガルブレイス、ロビンソン・クルーソーからションバール・ド・ローヴにいたる、人間学的学説の主張者たちが、欲求についての長ったらしいお説教をあきもせずに繰り返すことをさまたげはしない。【6】経済学者にとって、欲求とは「効用」のことである。それは消費を目的とした、すなわち財の効用を消滅させることを目的としたしかじかの特殊な財への欲求ということだ。【7】だから欲求は手に入る財によってそもそもの初めからすでに何らかの目標=終りにふり向けられており、選好もまた市場で供給される生産物の選び抜きによって方向づけられているわけで、欲求とは結局支払い能力のある需要「有効需要」である。【8】心理学者たちはもう少し複雑な理論を作りあげ、それほど「モノ志向」的ではなくそれ以上に本能志向的で、いわば生得的で不明確な必然的性格をもった動機を欲求だとする。最後に登場する社会学者と社会心理学者にとっては、欲求は「社会=文化的」性格をもっている。【9】学者たちは、個人は欲求を授けられ本性に従って欲求の充足に駆り立てられるものだという人間学的仮説や、消費者は自由で意識的であり自分が何を望んでいるか知っている存在だという見解を疑問視せずに(社会学者は深層心理的動機に疑問をもっている)、こうした観念論的仮定にもとづいて欲求の「社会的力学」の存在を認めようとし∵ている。【0】その上で、集団内の関係から引き出された順応と競争のモデル(「ジョーンズ一家に負けるな」)や、社会と歴史全体に結びついた大がかりな「文化モデル」を登場させるのだ。
 彼らのなかには、大雑把にいって三つの立場がある。
 マーシャルにとって、欲求は相互依存的で合理的である。
 ガルブレイスにとって(彼については後でまた触れることにしよう)、選択は説得によって押しつけられる。
 ジェルヴァジ(およびその他の人びと)にとって、欲求は相互依存的だが(合理的計算の結果である以上に)、見習い学習の結果である。
 ジェルヴァジはいう。「選択は偶然になされるのではなくて、社会的にコントロールされており、その内部で選択が行われる文化モデルを反映している。どんな財でもおかまいなしに生産されたり、消費されたりするわけではなく、財は価値の体系との関連において何らかの意味をもたなくてはならない。」この説は消費を社会統合の視点から見る立場へとわれわれを導く。「経済の目的は個人のために生産を最大にすることではなくて、社会の価値体系との関連において生産を最大にすることである」(パーソンズ)。同様に、デューゼンベリーも同じ意味あいで、ヒエラルキーにおける自分の位置に応じて財を選好することが結局唯一の選択であると述べるだろう。消費者の行動をわれわれが社会現象と見なすようになるのは、選択という行為がある社会と他の社会では異なっていて同じ社会の内部では類似しているという事実が存在するからである。これが経済学者の考え方と異なる点である。経済学者のいう「合理的」選択は、ここでは一様な選択、順応性の選択となった。欲求はもはやモノではなくて価値をめざすようになり、欲求の充足はなによりもまずこれらの価値への密着を意味するようになっている。消費者の無意識的で自動的な基本的選択とは、ある特定の社会の生活スタイルを受け入れることなのである。

 (ジャン・ボードリヤール著『消費社会の神話と構造』より抜粋編集)