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課題集 ワタスゲ2 の山

★「死とは何であるか」(感)/ 池新
 【1】「死とは何であるか」、「死んだらどうなるか」ということは、じつは人間の理性では決して突き止められない問題です。いまのところ分からないというのではなくて、原理的にはっきりさせられない問題なのです。【2】人間は文明発生以来たえず、この「死んだらどうなるか」という問題に何らかの答え(物語)を与えてきました。その理由は、昔は人間が蒙昧だったからではなく、人間が「自我」の生き物であり、これが分からなければ「自我」が安定しない本性をもっているため、「死んだらどうなるか」についての物語をどうしても必要としたからです。(中略)
 【3】そのために、どんな文明、どんな時代でも、人間は死とは何かについての物語を作って、それを共同体のいちばん基本のルールにするわけです。先に言ったように、西洋では、死んだら天国(地獄)に行くとか、また仏教では人間は輪廻転生するといった物語が、これまでは死についての最大の物語(フィクション)でした。【4】ただこの死の物語は、また必ず死の不安を宥(なだ)める「救済の物語」でもあったという点が大事です。
 死の救済の物語は、要するに、「死んだら何もない」という不安を打ち消す必要があるのです。というのは、もし「死んだら何もない」ということが本当なら、それは人間の生の「意味」をまったく無化するような「真理」だからです。【5】この「真理」は、人間の「生の意味」というものをまったく「無」だと言い、そのことで、生活のさまざまな努力を「無意味」にするからです。この救済の物語は、まず第一に死の不安を打ち消し、第二に生を意味づけるようなものでなければならないのです。何といっても、この役割を最もよく果たしてきたのは宗教だったと言えます。(中略)
 【6】ところが、近代以降、この救済の物語に厄介な問題が起こってきました。近代科学や合理精神が新しい世界像の基礎となることによって、キリスト教などの世界像が、多くの人間にとって疑わしく、「信じられない」ものになってきたのです。
 【7】自然科学における地動説や進化論は言うに及ばず、哲学においても、カントやへーゲルあたりから「神の存在」は自明のものではなくなり、やがてニーチェがキリスト教の世界像にとどめを刺すことになります。【8】彼は、キリスト教における「真理」に対する誠実な態度が、近代の徹底的な無神論やニヒリズムを出現させたのだと言っていますが、まさしくその通りで、十九世紀に入ると「無神∵論」はもう人類全体にとって後戻りの効かないものになります。【9】今では、キリスト教国や仏教国でも、無神論を決定的に滅ぼすことはできない。ときどきいろんな新興宗教がブームになったりするにもかかわらず、大きく見ると宗教的世界像は徐々に滅びつつあるのです。【0】
 しかし、そうであるからと言って、人間にとって死の救済の問題は必要欠くべからざるものです。そこで、宗教に代わって、近代哲学がさまざまな形で救済の物語を作り出す努力をしました。
 たとえばヘーゲルには、個の生命は死んでも大きく見れば生命循環するという考え方があります。つまり動物は死ぬと土に帰り、土は植物の養分になり、植物はまた動物に食べられてというように、生命体の大きな連鎖があるというわけです。これは、ある意味で近代的な輪廻説だと言えます。マルクスは、人間は個として生まれてくるけれど、しかし死ぬときには「類」として死ぬと言います。つまり、人間は、死ぬときといえどもじつは決して孤独で孤立した存在として死ぬのではない、社会や歴史や人類全体の一員として死ぬんだというわけです。
 これももちろん一つの物語です。この近代的な救済の物語としての人間の類的存在性、社会的存在性は、やはり近代社会での人間の生のゲームのありようを反映しています。つまり、近代社会では、人間は生まれ落ちるやその社会の中に投げ込まれて、「社会的に」自己を実現する。そのことによって、社会や歴史の中に自分を参加させ、社会的存在、歴史的存在として自分を成就するということを目標にするのです。だから、人間は死んでも何か社会的な貢献、社会の進歩や発展に寄与するように生きれば、その「生の意味」が保証される(救われる)ことになる。
 この物語は、近代社会の中で人間のライフスタイルが社会的自己実現というゴールを持つようになったことと対応しているのです。

 (竹田青嗣「自分」を生きるための思想入門」より)