昨日582 今日616 合計160441
課題集 ワタスゲ2 の山

★現代の「南」の人びとの(感)/ 池新
 【1】現代の「南」の人びとの大部分が貧困であることは事実だ。けれどもそれは、GNPが低いから貧困であるのではない。GNPを必要とするシステムの内に投げ込まれてしまった上で、GNPが低いから貧困なのである。
 【2】自分たちの生きるために必要なものを自分たちの手で作るということを禁止されたあのドミニカの農民たちは、こういう「南」の人たちすべての「貧困」の構造の赤裸々に短縮された典型であるにすぎない。【3】「南の貧困」をめぐる思考は、この第一次の引き離し、GNPへの疎外、原的な剥奪をまず視界に照準しなければならない。
 一九八八年のアメリカには、約三一〇〇万人の人びとが貧困ライン以下の生活をしていたという。この「貧困ライン」とは、四人世帯で年収一万二〇〇〇ドル強にみたない生活であるという。【4】この線は、「南の貧困」を論じる時に世界銀行等が用いる、一人あたり年間三七〇ドルという線とは、ずいぶん開きがあるようにみえる。この「ダブル・スタンダード」は、「豊かな国」のぜいたくと偏見にみちた基準と考えることができるだろうか?
 【5】ある部分までは、そういう「ぜいたくと偏見」が存在すると考えていいかもしれない。けれどもたとえば、アメリカ国勢調査局の記述によると、一九七二年には「少なくとも一〇〇〇万から一二〇〇万のアメリカ国民が、あまりにもわずかしか食費にまわせないために、空腹に苦しんでいるか、あるいは病気にかかっている。」
 【6】これは収入の数字ではなく、実際に食物が手に入らないという数字である。巴馬瑶族ばまやおぞくの村人は四八〇〇円の年収で豊かに生きることができるが、ニューヨークや東京の住民はその一〇倍でも、ほとんど生きていくことができない。これは単なるぜいたくや偏見の問題ではない。
 【7】アジアやアフリカの多くの村々でテレビのないことは少しも貧困ではないが、東京やパリやニューヨークでテレビのないことは貧困である。ロスアンジェルスで自動車のないことは、「ノーマルな市民」としての生活がほとんど出来ないということである。
 【8】この新しい貧困の形を説明しようとする理論が一般に用いる用語法は、「絶対的貧困」と「相対的貧困」というコンセプトである。「南」の貧困は絶対的な貧困であるが、「豊かな社会」の内部にも相対的な貧困がある、というわけである。∵「相対的」という言い方は、「豊かな社会」の内部の貧困を的確に把握する仕方だろうか?
 【9】すでに見たように、東京やニューヨークでは、巴馬瑶族ばまやおぞくの一〇倍の所得があってもじっさいに「生きていけない」。これは隣人との比較や不平等一般の問題ではなく、絶対的な必要を充足することが出来ないということである。【0】
 電話がなくても人間は生きることができるが、一九九〇年代の東京で電話がないという家族は、義務教育の公立学校の「連絡網」からも脱落する(「特別な処置」ではじめて「救済」される)存在である。つまりその生きている社会の中で「ふつうに生きる」ことが出来ない。
 これらは「羨望」とか「顕示」といった心理的な問題ではなく、この社会のシステムによって強いられる客観性であり、構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性である。
 「貧困」のコンセプトは二重の剥奪であるということを、「南の貧困」に即して見てきた。貨幣からの疎外という目に見える規定の以前に、貨幣への疎外という目に見えない規定があると。このコンセプトは、形態をまったく異にするようにみえる「北の貧困」にもそのまま当てはまる。第一次的な剥奪の巨大であることに応じて、「必要」のラインを定義する貨幣の数量も巨大なものとなる。第一次的な剥奪の重層的であることに応じて、「必要」であることの根拠も重層的となっている。
 現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを、この社会の「正常な」成員の条件として強いることをとおして、原的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、「必要」の常に新しく更新されてゆく水準を設定してしまう。新しいしかし同様に切実な貧困の形を生成する。

 (見田宗介そうすけ「現代社会の理論」による)