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課題集 チカラシバ の山

★自由な題名 / 池新
○小さいころから大切にしているもの / 池新

○おかしかったこと / 池新
★次の朝早く(感) / 池新
 【1】次の朝早く、海蔵かいぞうさんは、また地主の家へ出かけていきました。門をはいると、昨日より力のない、ひきつるようなしゃっくりの声が聞こえてきました。だいぶ地主の体がよわったことがわかりました。
【2】「あんたは、また来ましたね。親父はまだ生きていますよ。」
と、出てきた息子さんがいいました。
「いえ、わしは、親父さんが生きておいでのうちに、ぜひおあいしたいので。」
と、海蔵かいぞうさんはいいました。
 【3】老人はやつれて寝ていました。海蔵かいぞうさんは、枕もとに両手をついて、
「わしは、あやまりにまいりました。昨日、わしはここから帰るとき、息子さんから、あなたが死ねば息子さんが井戸を許してくれるときいて、悪い心になりました。【4】もうじき、あなたが死ぬからいいなどと、恐ろしいことを平気で思っていました。つまり、わしはじぶんの井戸のことばかり考えて、あなたの死ぬことを待ちねがうというような、鬼にもひとしい心になりました。【5】そこで、わしはあやまりにまいりました。井戸のことは、もうお願いしません。またどこか、ほかの場所をさがすとします。ですから、あなたはどうぞ、死なないでください。」
といいました。
 【6】老人は黙ってきいていました。それから長いあいだ黙って海蔵かいぞうさんの顔を見上げていました。
「お前さんは、感心なおひとじゃ。」
と、老人はやっと口を切っていいました。
【7】「お前さんは、心のええおひとじゃ、わしは長い生涯じぶんの欲ばかりで、ひとのことなどちっとも思わずに生きてきたが、今はじめてお前さんのりっぱな心にうごかされた。お前さんのような人は、いまどき珍しい。【8】それじゃ、あそこへ井戸をらしてあげよう。どんな井戸でもりなさい。もしって水が出なかったら、どこにでもお前さんの好きなところにらしてあげよう。あのへん∵は、みなわしの土地だから。【9】うん、そうして、井戸をる費用がたりなかったら、いくらでもわしが出してあげよう。わしは明日にも死ぬかもしれんから、このことを遺言しておいてあげよう。」
 海蔵かいぞうさんは、思いがけない言葉をきいて、返事のしようもありませんでした。【0】だが、死ぬまえに、この一人の欲ばりの老人が、よい心になったのは、海蔵かいぞうさんにもうれしいことでありました。

(新美南吉著 「牛をつないだ椿の木」より)