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課題集 テイカカズラ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ひなまつり / 池新
★初めてできたこと、わたしが生まれたとき / 池新

○おかあさん。私 / 池新
「おかあさん。私、みかんをいただきたいわ。そんなに、たくさんでなくてもいいのよ。」
「でも、おとうさんが、どうおっしゃるか……」
 かの子は、友だちのだれよりも、自分は幸福だと思っています。
 例えば、町のお店では、今ごろとても手に入れられないようなみかんも、かの子は、病気の友だちに、持って行ってあげることができるのです。
 そこでふと、かの子は思いました。
「あたし、みかんをどのくらい、おとうさんにおねだりしようかしら?」
 その時、かたことと、おとうさんのくつ音――。
「おとうさん、お帰んなさーい。」
 かの子は、茶の間をつききって、玄関にむかえ出ました。
 けれども、どうしたのか、おとうさんはいつもとちがって、おこったような顔つきをしています。
 おかあさんも、台所から出てきましたが、すぐ、おとうさんの顔色に気がついて、
「気分でも、お悪いんじゃありません。」
「なーに。そんなことはないよ。」
 おとうさんは、自分でやっと自分のきげんが悪いのに気がついたように、きまり悪そうに笑いました。
 やがて、着がえをしたおとうさんは、茶の間の食卓の前にすわって、「ほう、おいしそうだな。」
 おとうさんは、手作りの野菜サラダが、何よりも好物だったのでした。
 食卓には、野菜サラダのほかに、さかなのフライも出ていました。おとうさんは、それをおいしそうに食べます。
 かの子は、おとうさんは、病気でなかったのだと安心しました。そして、「ああ、おいしかった。」と、おとうさんがはしを置くのを見て、思い切って言いました。
「おとうさん。私に、みかんをくださいな。たくさんでなくていいの。」
 すると、おかあさんも、
「少しで結構ですから、やってくださいません。」
 ところが、それを聞くとすぐに、お父さんの顔色は、また、∵たちまちくもってしまいました。
 かの子は、びっくりしました。
 おかあさんも、はっとして、
「決して、無理にとは申しませんけども……」と、半ばわびるように言います。
 というのは、おかあさんは、おとうさんが、みかんのことでおこり出したのだと思ったからでした。
 そのみかんというのは、この、県立の農事試験場内にある温室みかんのことで、場長であるおとうさんには、それは、いつでも自由にとることができるのです。
 けれども、おとうさんは、みかんに限らず、試験場のものを、家に持ってくることを、絶対に許しませんでした。もし食べてみたいなら、農場の人たちといっしょに働いて、試食をしなさいと言うのです。
 おかあさんも、おとうさんの言うのが、正しいのをよく知っています。でも、今日は、かの子の友だちのために、特別、たのんでみたのでした。
 でも、おとうさんの顔色からみると、どうやら、それもだめなようです。
 かの子は、さびしいような、悲しいような気持ちで、じっと、庭を見ました。その庭の向こうに、水色の屋根を見せているのが温室で、そこには、二十株のみかんの木と、十二株の試験栽培の水稲が大事に守られています。今朝も、かの子は、その前を通る時、まだたくさんのみかんの実が、まるで宝石のように、美しくなっているのを見ました。
 でも、それを一つもいただけないとなると、なんだか、おとうさんがうらめしくなります。作るのに、たいそう費用のかかる温室みかんは、当然、高く売らなければならないでしょう。
 でも、たった一つぐらい、おとうさんに優しい思いやりの心があれば、買ってくださることもできるのではないでしょうか。
「かの子ちゃん――」と、不意に、おとうさんが声をかけました。
 かの子が、だまって、おとうさんに目を移しますと、おとうさんは、まじまじとかの子をながめて、∵
「病気をしているのは、どの子なの。」
「あたしと、ならんでいる子よ。」
「ほう。重いのかい。その子の病気は?」
「もう十日ねているの。熱があって、なんにもおいしくないんですって。」
「それで、みかんが食べたいと言うんだね。でも、今ごろ、みかんなんかとても食べられないだろうよ。町には売っていないだろうし、もし売っているとしても、ずいぶん高いだろうからね。――困ったね。今朝ならよかったのに。」
「おや、それじゃ、もう温室にはないんですか。」
 おかあさんは、意外だというように、おとうさんを見つめました。
 おとうさんは、軽くうなずいて、
「ないんだよ。」
「市場へでも、お出しになったんですか。」
「ばかを言っちゃいかん。市場へ売りに出すくらいなら、苦労して、今ごろまで枝につけておくものか。あれは、特別の事情の人に――例えば、重い病気で、しかも、びんぼうで、食べたいみかんも食べられない――そういった人たちに、一つずつでもわけてやろうと思って、大事に残しておいたんだ。それなのに、今日ちょっとしたすきに、みんなやられてしまった。」
「まあ、だれですの、そんないたずらをするのは。」
 さすがに、おかあさんの顔つきも、腹をたてたように険しくなりました。

(住井すゑ「わたしの少年少女物語」)