昨日523 今日21 合計154885
課題集 タラ3 の山

○自由な題名 / 池新
○こわかったこと / 池新
★初めて何かを食べたこと、学校へ行く道 / 池新

○さて、いろいろな点で / 池新
 さて、いろいろな点で勉強のやり方にくふうをしなければならないと思っているひとにいっておこう。勉強法はなるべく簡単なほうがいいということだ。複雑に考えてやったことにいい成果は出ないというのがわたしの意見だ。勉強の目的は各人によってちがうものの、何か目標を決め、知りたいことを解くという目的であったら、シンプルなほうがいい。「学問に王道はない」ということわざがあるように、勉強にバイパスはないのだ。ひとつひとつを手前からやっていかないといい結論は出ない。わからないコトはわからないコトとしてすてるのではなく、もちつづけることなのだ。
 たとえばわたしはエジプト考古学を専攻している。そこではいくつも大きな疑問が出る。(中略)
 今から二十年近く前に、五センチくらいの象牙の棒と石製の化粧板が遺跡から出た。化粧板はすぐわかったのだが、象牙の棒についてはわからなかった。そこで教授クラスのひとが、「ヘアピンだ」といいきったものだから、遺物台帳にそう書きこまれてしまった。わたしは「ヘアピン」というのに疑問をもったが、当時は学生だったので教授に異論をはさむ立場でなかったし、といって、はっきりなんだと反論する説も、もちあわせていなかったのでその場はだまっていた。
 あるときシナイ半島のベドウィン(遊牧民)の家族のテントをおとずれたとき同じようなかたちのものを見た。ただし木製であった。そこでカイロ大学の友人のお母さんがその木製の棒のもち主だったので、聞いてもらった。答えは「マスカラ」であった。その棒と対になっているビンも見せてくれた。平らな皿にすみを流して使うこともあると聞いたとき、わたしたちが発見した象牙の棒が、ヘアピンでなくマスカラであることを予感した。
 さっそくカイロに帰って博物館に行って、すみからすみまでさがしたところ、象牙のマスカラを発見することができた。はじめから博物館をたずねて調べればよかったのだが、教授という権威がいった「ヘアピン」という言葉の重みで、そこまでできなかったのである。∵
 この例は、すぐに思いつきで何かを判断しないほうがいいということと、すててさえなければいつの日か解けるときがくるということの証である。これ以外にもこうした例はたくさんある。勉強のやり方でいちばん大切なことは、勉強するひとなりに独自のやり方を考え出し、それを守るということだろう。(中略)
 勉強と聞くと身ぶるいするひともいると思うが、その発想をかえないとだめだと思う。勉強は楽しいはずだと思うことがその第一歩となる。よく考えてみると、人間しか勉強をしない。ということは、勉強は人間の特権であるとともに人間の証でもある。それならば積極的にとりくまなければ損だ。
 勉強は子どものときで終わりだと思っているひとは少なくないと思う。少なくとも大学を卒業したときに終わったと思っているだろうが、そうではない。人生は死ぬまで勉強がつづくのである。 (中略)
 わたしは大学で教えたり、研究調査をしている大学人なので、社会人としての自覚はないが、友人の社会人はわたし以上に勉強している。往復の電車のなかで人生論の本を読み自分の人生を豊かにし、会社では日々ひとと会って勉強をしているという。こういう前向きのひとは生きていても毎日が楽しいことだろう。休日は電車に乗って山へ行き、森林浴をしたり、木や草を見ながら自然のすばらしさにふれる。夜は山小屋にとまり、夜空を見上げ、星たちをながめることで宇宙の神秘を想う。なんと楽しい人生を送っていることだ。
 こんな人生を送れるというのも、子どものころから勉強を苦とせず、楽しいものと考えていたからである。
 成績がいいとか、悪いとかではなく、自分の好きなコトを見つけ、それを勉強していると、しぜんとほかのコトもついてくるのだ。

(吉村作治「好きなことを勉強する楽しみ」)