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課題集 タラ3 の山

○自由な題名 / 池新
○大事にしている物 / 池新
★いたずらをしたこと、何かをきれいにしたこと / 池新

○よく人からこんなことを / 池新
 よく人からこんなことを聞かれます。
「どうして高い山へ登るんですか」
あの有名な登山家マロリーは、
「山がそこにあるから……」
と答えましたが、これはほんとうの気持ちではなかったようです。なんでも答えるのがめんどうくさくて、なにげなく冗談めかしてそういったらしいのですが、それがいつのまにか名言となって、それが通りことばとなったようです。
 たしかに山がそこにあるから登るのでしょうが、わたしはそこのところをもう少し掘り下げてみたくなりました。わたしは絵描きです。よく人が、
「なにもそんなに高いところへ登らなくても、もっと楽をして絵をくようにすればいいのに」と、いってくれます。でも、せっかくそう言ってくれても、やっぱり高いところへ登ってしまうのです。
 では、どうして高いところへ登るのかという問題です。人にはそれぞれ自分なりに持っている、自分自身にたいする鍛え方というものがあるはずです。たとえば体操をしたり、かけ足をしたり、大きな声で詩を吟じたり、いろいろその人なりの鍛え方があると思います。わたしの場合は、高いところへ登るためについてくるつらさというものを、わたしの鍛え方としたいのです。(中略)
 なぜこんなにつらい思いをしてまで、おれは登るのか、たしかに自分でもそう思うことが始終です。そこで解答を出すわけなのですが、じつはそのつらさを体験するために登っているのです。自分の今の状態の限界を試してみて、そこで耐えられる自分の強さを知りたいのです。耐えられる強さは、なぜ自分はこうやって生きているのか、という自分自身への解答になります。自分は絵を描くためにこうやって生きてゆくんだという確かめが、はっきり形となってとらえられるのです。これはわたし自身にとって、とても大切なことなのです。
 そこで、みなさんの大好きな野球を例にとってみましょう。たとえば、個人ノック。∵
 初めのうちは、たいていかっこうよくボールを捕っていますが、そのうち五十本になり百本ともなってくると、どうなるでしょう。足はもつれ声も出なくなってきませんか。
「さあ、こい」なんていってますが、からだは球についてゆきません。百五十本近くになりました。そんな時、もうとても周囲のことなどに気をとられている余裕などありません。ふとそこには自分もなにもない、心がからっぽになってしまう時があるのです。と、ノッカーから打たれた球は、自然と君のグローブに吸い込まれてくるはずです。
「やったあ……」そこには、できると思ってもいなかったものをつかみとった、じつにすばらしい感動が生まれてきているのです。なにもかもわからなくなった時、向こうから飛び込んでくるもの、心もからだもくたくたになった時とらえられるもの、これこそわたしの求めていたものなのです。そうです、わたしの場合はそれを山に向かってしているのです。おわかりになってくれたでしょうか。
 そして、もう一つの解答もあります。
 それは高いところに登った結果得られる、「白と黒」の世界を描きたいという願いです。わたしたちを取りまく世界には、たくさんの色があります。ところが、そんな色がだんだんと高みに登るにつれて消去されていく、そんなこと、ご存じでしょうか。そしてついには花もなくなり樹木もなくなり、白い雪と黒い岩石に凝結されてくる、そんな自然を描きたいばかりに高みへ登ってゆくのです、つまり白と黒の世界、そんな世界を捜し求めているのです。
 そして高みに登った果てに、その向こうに見えてくる世界を望むことができる、そんな喜びもあわせ持つことができるのです。どうですか、そういうものを与えてくれる山はすばらしいと思いませんか。
 みなさんも、ぜひ山へのあこがれを持ってください。

(山田寿男ひさお「山のスケッチだより」)