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課題集 ルピナス3 の山

○自由な題名 / 池新
○根 / 池新

★もうその頃、僕は / 池新
 もうその頃、僕は尺八の美しさをよく知っていた。祖母の家に訪ねてくる尺八の名人がいて、その朗々とした響きは今もって忘れない。正座して尺八を構え、目を半眼に開く――これは子供心に抵抗を感じたが――そうして首を振りながら、生まれるビブラートは、まず腹の底に響くといった豊かさがあった。
 だが一体、目を半眼に開くということはどういうことだろう。フルートは目を開いて吹く。その目は楽譜を見たり指揮者を見たりという具合で、目をつむって吹いたにしても例外的なことだろう。いわば前を見ながら後を見、信号や標識に目を配る運転手の目のように働いている。
 しかし尺八の奏者はまさに無念無想の構えである。そしてこの構えは、ことや三絃と合奏するときにも破られようとは思えない。いずれも音に集中する態度に相違ないが、フルートが全体の流れを追って集中していくのに対して、尺八は鳴っているその一つ一つの音への投入を前提とするようにみえる。たしかにフルートと同様、尺八も微妙な音の運動を行うが、フルートがつねに到達しようとする音度を指向して運動する性質をもっているのに対し、尺八の運動は、音に没入するその感極まったあげくの表情か、あるいは寺男が余韻の消え去る頃合いを見計らって次の鐘を打つ、その感情に似て、新しい音に没入するまえの戦慄を表すもののように響くのである。
 いうまでもなく、楽器はすべて響きの工夫を伴っている。音はそれによって光彩を放ち、楽音として完成する。このことに尺八もフルートも異なるところはないが、しかしフルートは絶えず改良を施されてきた。はじめは尺八と同様縦笛だったそうだが、響きの合理性から横笛に変わった。そして、指のおさえもただくり抜かれただけの穴からキーにかわり、それがまた改良に改良を加えられて今日の楽器に至ったのである。
 けれども尺八には一体どういう改良が行われたのだろう。もちろん工夫はあったに相違あるまいが、しかしつくられた昔から今日ま∵でそのままの形で生きつづけてきたといった方が似つかわしい格好である。
 それにしても尺八は音の禅ということはどういうことだろう。あまりこだわってもなるまいが、何となく気にかかって過ごしているうちに、鈴木大拙の本の中で次のような説話に出会った。
 真理がどんなものであれ、禅とは身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬことである、と、大拙はつけ加えている。
 なるほど、日本の音楽は知的作用を隔絶した世界である。ヨーロッパの音楽は、記譜法を確立するとともに、理論的体系を積み重ねながら調的な力を追求してきた。もっとも、そのあげく現代に至って遂に調破壊の激越な意識を生むに至るのだが、それはともかく、日本の音楽はそのようなドラマとは無縁のことであった。すなわち、ヨーロッパの音楽は調的な力の把握に知的作用のたすけを借りたが、日本の音楽は、調性をひたすら体験的なものとして感じ、伝承してきたのである。上述の説法を借りれば、ヨーロッパの音楽は、起こり得るあらゆる危険を分析して対策を講じてから行動する夜盗に似、日本の音楽は説話そのままの夜盗に似ているということになろう。
 いいかえれば、ヨーロッパの音楽は客観的、日本の音楽は主観的性格を持つということになる。もしベートーベンが音ではなく光を失っていたとしたら音楽は書けなかった。けれども古来日本の音楽家には盲人が少なくない。そういう日本ではもっぱら、耳づて、口づてで音楽が伝承されてきた。当然、耳や勘が働けば目をつむっていてもかまわぬわけで、いやむしろ、目をつむった方が耳や勘の集中にかえって具合がいいということになるだろう。尺八奏者の目もこの関係を物語っているが、これはまた、体験的な音の世界のありようを暗黙のうちに物語っている。

(小倉朗「日本の耳」)