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課題集 ルピナス3 の山

○自由な題名 / 池新
○窓 / 池新

★米国で耳学問が / 池新
 米国で耳学問が発達していることを示す例として、よくいわれることだが、米国人は日本人と違って質問するすべがうまい、ということがあげられる。うまいのではなく、要するに、わからないことは何でも質問する習慣があるということにほかならない。
 わからないことは何でも質問するということで思い出すのは、コロンビア大学にいた頃の私の教え子だ。
 その学生の姿を遠くから見かけたら、どんな教授でも避けて通るほど、会うたびに質問をする学生だった。大学内だけではなく、夜遅くても教授の自宅に電話をかけてきて、一時間余り質問攻めにするという風に、それは徹底していた。(中略)
 この学生に典型的な例を見るように、米国では、質問して学ぶ、つまり耳から学ぶ「耳学問」が学問の一法としてまかり通っている。日本人はとかく「いい質問」と「くだらない質問」を分けたり、あるいは、本当は答えはわかっているのに自分の才能とか、発想とかをひけらかすために質問したりする傾向があるようだが、米国人にはそれがない。いい質問とか、くだらない質問とかに頓着とんちゃくしないで、とにかくわからないことは何でも質問し、できれば質問することだけで学びつくしてやろうという姿勢が、米国人全般にあるのだ。
 確かに一流大学の学生なら、この耳学問だけで、短期間にかなりのレベルまで学ぶことができる。例えば三、四百ページの本に書かれていることを学ぼうとしている時、学生は教授のところへ行って、「この本には何が書かれているのですか?」と、日本の大学では考えられないような質問をする。実に幼稚で、おおざっぱな質問であるが、質問された教授はそれに対して懸命になって説明する。するとその説明に対してまた質問を浴びせ、それを何時間かにわたってくり返しているうちに、その本のエキスの大概を学生はつかんでしまうのだ。大部の書を十ページ読んで、わからなくて放棄するより、まるで目を通さずに質問したほうが、結果としては、格段にいいわけである。もちろん、こまかい点は読まなければならないが、大体のエキスあるいは骨格がつかめていれば、本に対する理解は早い。
 私はよく学生との間で経験していることなのだが、日本の学生の場合は質問する時に、「WHY」とか「HOW」という聞き方が非∵常に多い。いうまでもなく「WHY」というのは「なぜか」ということなのであるが、これは「真理」(truth)を尋ねているわけである。これに対して米国の学生は「WHAT」という形の質問が非常に多い。「それはいったい何なのか」という聞き方をする。これは「事実」(fact)を聞いているわけである。
 要するに日本の学生のほうは、事実の背後にある真理を求めていると解釈できる。「WHY」と問うのは事実だけでは満足できないからだというのであれば、これはこれで立派なことだと思う。しかし真理などというのは、場合によっては情報がいつの間にか真理と錯覚することもあり、事実も知らないくせに「真理」という言葉をふり回して自己満足に酔っている場合もあり得る。一方、事実をはっきり知ることから出発しなければ危険だ、事実から真理を見抜くのは自分の仕事で他人に聞くものではないという態度もある。どちらがよいかという判断はつきかねるが、ともかく日本でそういう違いがあることを知っておくのもよいだろう。
 ところで、こうした耳学問は、単に学問の上ばかりではなく、さまざまな局面で利用される。例えば日本のことを知りたがっている米国人は、日本について書かれた本を読むより、まず身近な日本人にどんどん質問するわけである。私も、周囲の米国人から逐一日本のことを質問されたことがあった。質問されれば、答えなければならない。答えなければ、こちらも相手に向かって、それに似たことを質問できないからだ。答えるには、どうしたらいいか。日本とはどういう国か、日本人とはどのような性格をもった国民か、自分で考えたり本を読んだりして、学ばなければならないのである。教えるためには学ばなければならない。いいかえると、学ぶための方法の一つは、人に教えることにある、ともいえるのだ。
 それはともかく、こうした経験をくり返す中で、日本という国の見えない特性、日本人特有の生活感情や思考法などについて私が発見したことは、ずいぶんあった。国際化したこれからの社会では、この耳学問が大いに重要な意味をもっているに違いない。

(広中平祐へいすけ「生きること学ぶこと」)