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課題集 ルピナス3 の山

○自由な題名 / 池新

○坂、自信と自慢 / 池新
★食事を済まし / 池新
 食事を済まし、支度ができたのは一時過ぎだった。K君には私の古洋服、古あみあげを貸し、私とH君とはゴムの長靴をはいた。H君はパンの他にコーヒーを入れた大きな魔法壜を肩にかけた。雪の遠足、子供のころほどには勇みたてなかった。しかしまだまだ年にしてはこんなことを興ずる方だった。
 沼べりの田圃路を行くと雪はもう解けかけ、靴の下でびちゃびちゃ音をたてた。苅り田の切り株に丸く残っていた。
 警察分署の横から町を横切り、踏切の方へ行く。S大工の家の前には夏のころ所望したが譲らなかった「合歓木ねむのき」がさびしい姿で立っていた。駅員相手に掛け茶屋のような事をしていたから、夏、その下に縁台を出す繁った木を取られては困るのだ。S大工が鬚だらけの達磨顔を当惑さしていたのを思い出した。
「夏になると、これがなかなかいいんだ。花もきれいだし」未練がましく、私は木を仰いで過ぎた。
 線路を越すと広々とした畑になる。この辺、まだ一面に雪が残っていた。うねなりに波打つ雪の表面から麦がところどころにその葉先を見せていた。
 やはりいい気持ちだった。私たちは立ち止まった。その時ふと十間ほどうしろにうちの子犬が来ている事に私は気がついた。子犬もそこで立ち止まっている。
「帰れ!」私は大声にいって追いかえそうとした。子犬は尾を垂れ、わきへ身を隠した。
「歩けないかな」
「歩けない。富勢の植木屋へ回ると三里あるからね」
 とにかく、追いかえす事にする。雪をぶつけると尻を丸くして逃げるが、少し行っては立ち止まり、またこっちを見ている。追えば追っただけ逃げて同じ事だった。(中略)
「しかしそんなに馴れないくせについて来るのが変ですね」
「それが変だよ。そうなると、雪の中に置いてきぼりを食わすのも気持ちが悪いしね」∵
「止まってると少し寒くなる」
 で、私たちは路へ出て、また歩き出した。そして間もなくそれが近道で、大きな松林の中へ入って行った。水気を含んだ雪が時々高い枝から音をたてて、落ちて来た。
 松林を出て細い路からいったん田圃路へ降り、さらにダラダラ坂を登って私たちはある村落へ入った。村には飼い犬がいて、子犬は脅かされ、よく見えなくなった。その度、私たちは後もどりをしてさがさねばならなかった。
 見つけて、「早く来い」こういうと、子犬は尾を下げたまま臆病にその先を振るが、近づけば逃げた。何者をも決して信じない子犬の態度はいくら子犬でも腹が立って来た。
「これじゃあ、夜になっても帰れないぜ。どこかで縄をもらってつないで行こう」
 私は農家で一間ほどの藁縄をもらって来た。しかし、村なかでなく、村を出はずれてから捕まえる事にした。
「何くわぬ顔で先へ行ってくれないか」
 私は道ばたの灌木の中に身を隠した。子犬が通り過ぎた所を挟撃するつもりだった。だんだん遠ざかる二人の足音を聞きながら、私は今にも現われる子犬を待ったが、二人が一丁ほど行ってもまだ子犬は現われなかった。私はそっとのぞいて見た。子犬はそこに立っている。そして私の姿を見ると、すぐ逃げた。
 私は子犬が農家の納屋へ逃げ込んだ所をとうとうつかまえた。子犬は夢中になって、私の手にかみつこうとした。私は上顎うわあごと下顎を一緒に握って、あいた手で縄を首輪へ通した。それから犬の尻を五つ六つ平手で打ってやった。子犬は鳴き声もたてずに、食いつこうともがいた。癇癪からこっちも殺気立った。二本に短くなった縄でつる下げてやると、子犬は歯をむいたまま鮒のように空で跳ねた。

(志賀直哉「雪の遠足」)