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課題集 ルピナス3 の山

○自由な題名 / 池新
◎石 / 池新
★季節感のある暮らし、スポーツの勝ち負け / 池新

○列車に乗って / 池新
 列車に乗ってぼんやりと窓の外を眺めたり、瞑想にふけったりしている時間は、私のほとんど唯一といってよい、何物からも開放されたリラックスした時間である。
 何度も眺めたことのある同じ風景も、季節や時刻が変わるごとに新たな味わいを見せ、あるいは過ぎ去った日々へのノスタルジアを、あるいはまだ見ぬ場所へのイマジネーションを誘って、飽きることがない。身体が座席に縛られて窮屈なのに反比例して、想念の方は、世の束縛から解き放たれて奔放に飛翔し、さまざまな着想が浮かんでくるのもこのときである。まったく自分自身に帰って、真に心の安まる自由な時間を過ごすのが、何物にもかえ難い旅の醍醐味の一つなのである。
 こういうわけで、列車の道中が長いことは私には少しも苦にならず、むしろ長いほどありがたいくらいである。(中略)
 時として、傍若無人な団体客の喧騒や、携帯ラジオの無遠慮な放声に悩まされることがあり、また車内アナウンスが親切すぎるという難点があるとはいえ、列車の中は概して静かで、旅の楽しみを著しく妨げられることがあまりないのはまずまずありがたい。もしスピーカーからのべつに観光案内やら、「音楽」やらが流れることにでもなったら、私の最良の憩いの時間が奪われてしまうことは必定で、想像するだけでも慄然とする。
 ある国鉄の車掌さんが嘆いていた。発車するとすぐに、くどいほど行く先の到着時刻や接続案内などを繰り返すのに、放送を終えて車内の巡回を始めると、とたんにたった今アナウンスしたばかりの到着時刻を必ずといってよいほどきかれるので、まったくがっかりする、と。車掌さんには気の毒だが、私はむしろ当たり前ではないかと思う。案内放送というものに乗客は慣れっこになってしまっていて、せいぜいバックグラウンド・ノイズとしてしか聞こえていないのが一般だから。そう言っては申し訳ないが、もっと効き目がないのは忘れ物の注意で、降りるまぎわまでそわそわしているところへ十年一日のような放送が流れてきても、それをまとも∵につかまえる耳はそうたくさんはないであろう。注意のあるなしにかかわらず、忘れ物をする時にはするものであることは、私自身の経験を顧みても、まず間違いのないところだと思う。
 もともと忘れ物の注意などは各自の責任でするべきことで、忘れ物をしたからといって、なぜ注意してくれなかったのかと乗務員をなじる筋合いのものではないであろう。到着時刻や接続関係にしても、本来がめいめい調べればよいことである。
 ただしそれができない場合に車掌に尋ねることはもちろん差し支えない。いやそれどころか、そんな時に親切丁寧に教えてくれることこそ、期待してよいことだと思う。一人ひとりのバラエティーのある要求には、しょせん応じきれず、また特別に注意を払っていない限り聞きのがしてしまう、一律で型にはまったおしきせ放送よりも、その方がはるかに乗客の主体的な選択にきめ細かく応じた、本当の意味でのサービスになり、かてて加えてバックグラウンド・ノイズが小さくなって、静けさを望む客にとってもまた上々のサービスとなるに違いない。
 私は観光バスというものに乗ったことがない。ガイドの絶え間のないおしゃべりが、バックグラウンド・ノイズとして聞き流す限界を超えた本格的ノイズであるうえ、ガイドの指図に従って右や左を向くことに虫酸が走る(ガイドに限らず、ガイドづらをするものにはすべて同じだが)からである。知りたいことはガイドに聞くよりも、自分でしかるべく調べた方がよほど確実であるし、別段知りたくないことまで教えてくれるのは有難迷惑の気味が大いにある。バスガイドが車窓から見えたきれいな山の名を教えてくれなかった、と憤慨している投書をある新聞で読んだことがある。その時、あんぐりと口をあけて、過保護ママが食べ物を入れてくれるのを待っているモヤシっ子を、私は思わず頭に浮かべた。
 観光バスには乗りたくなければ乗らなければよいのだし、ガイドされたり世話をやかれながらの、にぎやかな旅を好む人々の楽しみに、水をさすつもりもない。しかし一般のバスや列車に関しては、旅の味わいを人それぞれの心に任せてくれる、車内放送も発車のベルもない静かな欧米諸国の旅行風景が、私にはこよなく懐かしい。
(堀淳一 「地図から旅へ」)