昨日582 今日1425 合計161250
課題集 リンゴ3 の山

○自由な題名 / 池新
○橋 / 池新

○子供たちは、どこでも、 / 池新
 子供たちは、どこでも、英雄物語を与えられる。英雄たちを、いわば自らを映す鏡として子供たちは育ってゆく。誘惑に負けそうになったとき、意気がくじけたとき、子供たちは英雄の事績を思い出し、歯を食いしばって頑張るのだ。少なくとも、発展途上国の友人たちの話を聞いていると、国家的英雄こそが希望の星であり、それに向かって人々が日々の努力を重ねている、という社会的事実がひしひしとよくわかる。
 そうしたことを考えながら、日本の現実をながめてみると、私は一つの重大なことに気がつく。それは、現代の日本には、生き方のモデルになるような英雄があんまり見当たらない、ということだ。いや、そもそも、どう生きるか、についての教育があんまり行われていない、ということだ。
 まず教科書の中に、英雄物語が少なくなった。皆無とは言わない。いくつもの感動的な物語はある。しかし、たとえば、一時代昔にわれわれの世代が学んだような愛国的英雄は、もはや今日の日本の教科書には見当たらない。偉大な政治家や科学者の伝記がいくつかあるけれど、それらの過半数は外国人である。日本の国家とかかわりあう英雄は、今日の子供たちの文化の中から姿を消してしまったようなのである。
 課外の読みものでも、英雄の話はあんまり好まれていないようだ。児童図書の売り場には、たしかにキューリー夫人、リンカーンなど内外さまざまな偉人の伝記がならんでいるけれども、必ずしもそれは人気のある書物ではない。子供たちは、マンガや探偵小説の方に手を伸ばす。伝記を買ってやっても、あんまり読む気にはなれないらしい。
 これは、日本の現代文学史を考えるにあたって、きわめて重大なことであるように私には思える。少なくとも、私が子供のころには、たくさんの伝記があり、それらの伝記を私たちは、次から次へと読んだ覚えがある。もちろん、伝記というのは一般的に言って、子供にとって小説ほど面白くもないし、またマンガほどわかりやすいものでもない。しかし、私たちの時代には、たとえば少年講談といったような、面白い文学形式があった。ややもすれば平板になり∵がちな伝記を、子供向きの講談につくり換え、それを活字にした少年講談は、私たちの同世代人に、大げさに言えば、血湧き肉踊る経験を与えてくれたのである。豊臣秀吉、西郷隆盛、楠木正成……いろんな歴史上の人物の生き方は、一連の少年講談によって与えられた。レオナルド・ダ・ビンチだのも、私はこうして本で学んだ。もちろん、いくつかの人物の選び方や、描き方は時代の産物であって、したがって、今日の基準から見ると、私が子供のころに読んだ伝記は不適切であったり、あるいは間違っていたりしただろう。しかし、これまで歴史上に生きた人々の人生を学ぶことによって、自分の人生を考える、という行動の仕方が、昔の子供文化にはあった。それが今は、かなりの程度まで失われてしまっている。
 そのことが悪いことだ、というのではない。時代が変わったのである。新しい時代の子供たちは、旧時代の人間とは違った価値の中で、新しい生き方を発見してゆくのであろう。それは、それでよい。だが依然として、私は少なからず気がかりなのである。お手本になるような人生のモデルが貧困な時代に、はたして、子供たちはどんなふうにして人生の意味と方向を学んでゆくことができるのだろうか。
 そのうえ、よしんば教科書的に、こう生きよう、という生き方のモデルが与えられたとしても、子供文化をとりまくマスコミは、あんまり崇高でない英雄たちを次々につくり、それをばらまき続けている。子供マンガの主人公は、不良グループのリーダーであったり、あるいは暴力的な超人であったりする。それらの主人公の生き方をモデルにして、子供たちが悪い方向に引きずられる、などと即断することは間違いだけれども、現代の若い人たちにとって、生きてゆく方向性は相対的に弱くなっている。少なくとも混乱している。若い人たちが、しばしば「生きがい」の喪失をうんぬんするのも、私の見るところでは、このへんのところと深く関係しているようだ。生きたいように生きる、という思い上がりで、他人の人生から学ぶことを怠った世代は、結局のところ、人生の意味をつかむ手がかりを失ってしまったのである。
(加藤秀俊『独学のすすめ』)

○■ / 池新