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課題集 リンゴ3 の山

○自由な題名 / 池新
○流れ / 池新

○ある作家の全集を / 池新
 ある作家の全集を読むのはひじょうにいいことだ。研究でもしようというのでなければ、そんなことは全くむだごとだと思われがちだが、決してそうではない。読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」ということばがあるのだがこの言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのがいちばんてっとり早い。しかも確実な方法なのである。一流の作家ならだれでもよい。好きな作家でよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。
 そうすると、一流といわれる人物は、どんなに色々なことを考えていたかがわかる。彼の代表作などと呼ばれているものが、彼の考えていたどんなにたくさんの思想を犠牲にした結果、生まれたものであるかが納得できる。単純に考えていたその作家の姿などは、この人にこんなことばがあったのか、こんな思想があったのかという驚きでめちゃめちゃになってしまうであろう。その作家の性格とか、個性とかいうものは、もはや表面のところに判然と見えるというようなものではなく、いよいよ奥の方の深い小暗いところに、手探りで捜さねばならぬもののように思われてくるだろう。僕は、理屈を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしているうちに、作者にめぐり会うのであって、だれかの紹介などによって相手を知るのではない。こうして、小暗いところで、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったというぐあいなわかり方をしてしまうと、その作家の傑作とか失敗作とかいうような区別も、別段たいした意味をもたなくなる、というより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるというようになる。これが、「文は人なり」ということばの真意だ。それは、文は目の前にあり、人は奥の方にいるという意味だ。書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えてくるのは、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出てきて文学となったものを、再びもとの人間に返すこと、読書の技術というものも、そこ以外にはない。もともと、出てくる時に、明らかな筋道を踏んできたわけではないのだから、もとに返す正確な方法があるわけではない。
 要するに読者は暗中模索する。創った人を求めようとして、創った人の真似をするのだ。なるほど、作者という人間を知ろうとし∵て、その作家に関する伝記その他の研究を読んだり、その時代の歴史を調べたり、というような色々な方法があるが、それは、碁・将棋でいえば、定石のようなものだ。定石というものは、勝負の正確を期するために案出されたものには相違ないが、実際には勝負の不正確さ曖昧さを、いよいよ鋭い魅力あるものにするだけだ。人間は厳正な知力を傾けて、曖昧さのうちに遊ぶようにできている。

(小林秀雄『読書について』)

○■ / 池新