昨日582 今日1375 合計161200
課題集 リンゴ3 の山

○自由な題名 / 池新
○鏡 / 池新
○流れ、自分の利益と相手の利益 / 池新
○かつて私は、 / 池新
 かつて私は、ある作曲家に、作曲家が自分の名を冠することのできる曲は、時代がくだるにつれて可能性がかぎられてゆき、やがて種切れになるのではないかと、質問したことがある。作曲家の答えは、まだまだ無限といってよい音やリズムの、組みあわせの可能性がある、ということであった。
 まもなく私は、音楽より絵の方が、種切れになりつつあるのではないかと思うようになった。特に、現代にさかんな公募展という発表形式は、画家の自己主張の工夫と、みじめなあせりとの悪循環をあおっているように、私は思えてならなかった。「制作」と「売り絵」を描き分けている人では、売り絵の方に、その人のもっている良いものが、かえって素直に出ていると思われることがある。
 数年前パリで、ジョルジオ・モランディの遺作展をみて深い感銘をうけてから、私はこうした種切れ論など、たいそう浅はかな見方にすぎないことを感じるようになった。このつつましい現代イタリアの絵かきは、それまでの何万何十万人の画家が描いてきたものに彼の独創をつけ加えようなどとは、決して考えなかったにちがいない。彼はただ透明な目と心の指示するままに、ものの色とか形とかから、不純なものを取り除いていったのであろう。その精進が、あれほど単純で、ありふれてさえみえる静物画や風景画に、あれほど大きくて深い力を与えているのであろう。こうした精進によって、私たちの前にとりだされた色と形に向かって、絵画種切れ論など頭を垂れるほかはない。ジャン・フォートリエの作品のような、感性が、そのまま色の濃淡、時として絵の具のわずかなもりあがりになって流れ出ていると思われる絵にすら、私は「創造」よりは「発見」への努力の、謙虚な崇高さを感じずにはいられない。
 同じことは、学問についてもいえるかもしれない。真に深い洞察は、先人の業績におのれの独創をつけ加えてやろうとする肩をいからした精神からは決して生まれないようだ。それなら、宇宙の構成要素と、それらをつなぐ原理は、古来一定不変で、ただその組みあわせの変化の多様さや、動きの複雑さが、歴史の進行に新しい創造があるかのような錯覚を、人間に与えてきたといえるであろうか。そのことは、これから先も、おそらく人間に決してわかることがないだろう。∵
 一番大きいものと、一番小さいものは何かという問いすら、永遠に答えられないことを自分でも承知していて、あいまいに、ある程度の時間だけ生きている人間にとって、彼が宇宙のなかで明らかにしえた既知の部分など、未知の部分にくらべて微々たるものでしかない。人間にとって、未知の部分は永遠に残るどころか、人間が既知の領域を骨折って拡大すればするだけ、それに外接する未知としてじかに感得できる領域も、ますます拡がってゆくことはたしかなのだから。
 人間の営みを扱う人文・社会科学と自然現象一般を扱う自然科学という、比較的あとの時代になって人間が問題とするようになった区別も断絶した対立ではなく連続した差異にすぎないことは、サバンナの中で考えていると全く自明のことのように思われてくる。どれほど精密な電子顕微鏡をのぞくのも、人間の目であり、あらゆる計算を可能にする数の体系を、ひとつの約束事として考察したのも人間である一方で、言語を頂点とする意思の伝達や、後天的に得られた知識や技能の同類への伝達は、決してホモ・サピエンスだけのものではない。
 人間は、自分たちだけが自然のなかにたまたま見つけたものは、したり顔に「発明」と呼び、他の動物のすることは、どんな精巧でも、あれは本能だという。自然の一部分である人間の自然のなかでの優位の主張は、人間の自然認識がある程度すすんだ段階で、人間が示したいくらか子供らしい拒絶反応であったように、私には思われる。人間が自然と連続した関係においてとらえられることが、ほかならぬ人間が考察し精密化した手段によって明らかになるにつれて、逆に人間は主体性とか価値ということに、ますます執着せざるをえなくなったのであろう。
 自由への道は、人間が自然に対して自分勝手に振るまうのではなく、自然と人間の関わりあいについての認識を拡げ、明白にする努力のうちに、少しずつ明らかになってゆくものなのかもしれない。

(川田順造『曠野から』)

○■ / 池新