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課題集 リンゴ3 の山

○自由な題名 / 池新
○窓 / 池新

○花の多いところに / 池新
 花の多いところに着いたら、リュックを下ろして寝ころんでみよう。寝ころぶ場所が問題で、谷あいの棚田なら山手半分は敬遠したほうがよい。いつの間にかみ出した水のために背中がぬれる。地下水位が高いのだ。下手のあぜのへりなら乾いていて、まず大丈夫だろう。そのつもりで改めて眺めなおすと一枚の田んぼでも場所によってレンゲの生え方、密集の程度がちがう。レンゲはあまり湿った土を好まない草である。ブンブン唸り声が聞こえる。ミツバチだ。チョウも遊びに来るかもしれない。ミツバチの仕草を眺めたら、レンゲの体を見なおしてみよう。
 まずレンゲを一株だけ、根ごと掘りとってみる。力まかせに抜くのではなく、棒切れか竹べらか、あるいはナイフを土に突き立てて、なるべくそっと掘り上げる。指でつまんで土を丁寧にもみほぐすようにして落とすと、根があらわれる。付近の用水こうの水で洗ってみると、いっそう根の様子がよくわかる。一本の太い根と、枝分かれしたたくさんの白っぽい根がある。そのヒゲ根のあちこちに、米粒形の長さ三〜五ミリほどの粒がたくさんくっついているだろう。少し赤みがかっている。
 この粒が曲者だ。これはじつはチッソ工場なのである。この中に根瘤バクテリアという特別な細菌が住んでいて、根のまわりやすき間などの空気の中のチッソを水溶性のチッソ化合物に変える働きをしている。稲刈りをした後の田んぼにレンゲの種子をまいておくと、翌年の田植えまでの間にレンゲが生長し、根に粒ができて多くの水溶性のチッソ化合物が生産され、レンゲはこれを栄養にしてますます生長する。これをスキで掘り起こし、くだき、土と混ぜる。つまり肥料にするわけで、緑の草の肥料という意味で「緑肥りょくひ」と呼ぶ。現金収入の乏しかった農家が、化学肥料を買わずとも田んぼの土を富ませられる手段だったわけである。
 この方法は昭和十年代が最盛で、二十年代には半分に減った。最近では人手不足の代わりに現金収入のふえた農家が、手間の簡単な∵「金肥きんぴ」――化学肥料をどしどし使うので、田園全域が赤い花に敷きつめられるという風景は少なくなった。レンゲはもともと日本には生えていなかった、と考えられる。中国大陸の原産で漢名を紫雲英しうんえいまたは翹揺ぎょうようと言い、「緑肥りょくひ」として栽培がさかんに行われ出したのは明治中葉と言われている。
 レンゲの花が終わり、野を占めるものの主役が虫媒花からイネ科の風媒花に変わるころ、田園の風景はにわかに色どりを失う。(中略)だから、春の野の花の鮮やかさは、農民たちには一種の救いであり、よみがえり来る生の季節の象徴として喜ばれたのだろう。キンセンカ、ヤグルマギクに始まって、種子とりには不必要なほど多量のシュンギクの花が、抜きとられもせずに咲くにまかせてある。不精なのではない。単なる風流でもないように思われる。少しでも風景を色どり豊かにしようと心がけてきた農民魂のあらわれなのである。
 かつて大和の飛鳥ではレンゲ論争というのがあった。村長さんが音頭をとって、農家にレンゲの種子を配り、休閑田にまこうと奨励した。観光客の誘致のためである。「日本のふるさと」というキャッチ・フレーズのポスターには、ぜひとも野にみちるレンゲの赤が必要だ。レンゲにうずまる田園こそ、訪れた都会人たちの心をなごませ、楽しかった少年時代への郷愁を呼ぶ――。植物学者のKさんがこれに抗議した。もともと日本にレンゲはなかった。古代の飛鳥の風景はもっと淡彩素朴であった。飛鳥が「日本のふるさと」ならば、そうした「ふるさと」の真実を訪問者に知らせることが大切なのだ。レンゲまきをすすめるなど邪道だ――。
 春に咲く野の花は、黄色の花が多い。量の多いタンポポやジシバリ類、キンポウゲ類、ヘビイチゴ類がすべて黄色で、白い花はハコベにしてもタネツケバナにしても小形で目立たない。これでレンゲがなかったのだから、古代日本の田園の風景は、もっと地味で寂しい眺めだったにちがいない。そのような風景を眺めて、私たちの祖先は暮らしていたのである。
(日浦いさむ『自然観察入門』)

○■ / 池新