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課題集 レンギョウ3 の山

○自由な題名 / 池新
○春を見つけた、種まき / 池新

★田辺がある女の子に / 池新
 田辺がある女の子に好意を抱いていると気づいたのは、その年の夏休みが明けた頃だ。あんなにわたしの「保護」をうとましがっていた彼が、放課後よく目の前に現れるようになった。こちらの部活が済むまで図書館で時間を潰しているらしかった。図書館で宿題を済ませたほうが合理的だとか、貸出禁止の重たい辞典に用があるのだとか、田辺としては完璧な理由で防壁を築いたつもりだったろうけれど、わたしのクラスの子の話を聞きたがっているのは明らかだった。
 色の白い小柄な少女で、勉強は抜群にできた。校則違反の赤いリボンを髪に結んでいて、ときおり注意されたけれども成績がよいせいかあまり強くは叱られない。先生や男子に対するときだけ声が一オクターブ高くなると言われ、同性の評判はきわめて悪い。たまに上級生の女子が数人、リボンを取れと彼女に詰め寄る場面が校内で見られるけれども、それはハタからはいたいけな美少女が虐められている図にしか見えず、こんなところに出くわすとクラスの男子たちは果敢に上級生と闘ってしまったりして、他の女子を余計いらいらさせていた。
「ほんっと、おまえって見る目がないな」
 吐き捨てるようにわたしが言うと、彼はまず別に好きなわけではないと甲斐のない言い訳をムキになってし、次にわたしは彼女を誤解しているのだと少女を弁護し始めた。互いに腹立たしくなり、ずいぶん口論した。
「ちがうよ、みんな嫉妬されて孤独なんだよ」
「孤独ぅ? どっからそんな言葉が出てくるんだよ。言ってて恥ずかしくない?」
「孤独なんだ。高岡にはわからないんだ。」
「あー、そうかよ。じゃあ、孤独な美少女にラブレターでもなんでも書きゃいいだろ。そんな度胸、あんのかよ」
 彼がこんなふうに何かを主張するのは初めてだったから、わたしは多少狼狽していた。もういいよ、と背をむけて歩き出す田辺に追∵い打ちをかけずにはいられなかった。
「書けば? なんだったらあたしが聞いてきてやろうか、田辺君をどう思うって。知らないかもしれないな、おまえのことなんか」
 そしてげらげらと下品な声で笑った。
 田辺はくるりと振り向いてわたしを突き飛ばした。顔が真っ赤だった。声が震えていた。
「ぼくが……、ぼくが、もしも君津さんに高岡のこと聞いたらどんな気がする」
 どきりとした。君津さんというのは剣道部の男子の主将だ。わたしの秘かな憧れをまさかこの愚鈍な田辺に見透かされているとは思いもよらなかったのだ。わたしは見事にしどろもどろになり、何を勘違いしているのだという声に力がこもらず、どうしてそう思うのかとおそるおそる尋ねた。田辺はにじんだ涙を手でぬぐった。
「いつも君津さんのこと話してるじゃないか。蹲踞(剣道で、試合に入る前の、つま先立ちで腰を下ろす姿勢)の姿勢がいいとか、負けても言い訳しないのが立派だとか、高校から特待生のお呼びがかかってるとか」
 怒りの解けない低い声だった。そうかもしれない。いじけたような田辺をなじるのにいちいち君津さんを引き合いに出し、田辺とは無関係なのに君津さんを見習えとさえ言った気がする。うるさそうに聞いていないような振りをして、田辺は全部聞いていたのだし心の中で苦笑していたのかもしれない。口に出してからかったりしなかったのは、同病相憐れむといったような心持ちか、あるいは武士の情けか、いずれにしてもわたしの態度とはえらく違った。
「……ごめん」
わたしはむすっと呟いた。田辺もむすっと答える。
「いいよ。言われなくても知ってるよ。デブなんか相手にされないって」
 それはわたしにしても同じことだ。どんなに一生懸命稽古しても、君津さんの目に留まることはない。彼が好むのは、剣道ではなくお茶とかお華とかをやるような女の子だ。彼が好きなのは三年生∵の誰々だと、妹の気持ちも知らずに能天気な兄が教えてくれていた。クラス委員をしているそのひとは知的で落ち着いた雰囲気を持っていて、実際にはピアノとバレエを習っているそうだけれど、たしかにお茶やお華も似合いそうだった。あんなひとと比べたら、わたしなど棒を振り回すただのガキ大将だ。君津さんに近寄っていくにもチャンバラで切り結ぶ以外に方法がない。
 すると、なんだかいまさらながらに自分の立場がよくわかった気がした。それまで、わたしは何でもしゃにむに我を通せば思うようにならないことなどないと思っていた。たしかに君津さんには届かないが、少なくとも自分は田辺よりは優秀な人間であり田辺よりは世界の中心に近い場所にいて、彼を保護してやるのは余裕からくる慈悲心だと思っていた。でも気づいてみれば、田辺もわたしも大した違いはなかった。好きなひとに好きだと堂々といえるだけのものを己に備えておらず、駄目だとわかっていてもなお告白するだけの勇気などもない。
「それに、ぼく、もうすぐ転校するし」
わたしはゆっくりと首を回して彼を見た。
「どこに?」
東京だとつまらなそうに彼は言う。
「そうか」
 わたしはなんとなく道の(はしにしゃがみ込んだ。目の前を川が流れている。水量は少なく、乾いた土手には手を切りそうな薄の葉が揺れている。そんなものを眺めながらしばらく黙っていた。田辺と別れることがそれほど淋しかったというわけではない。少しばかり考えることがあったのだ。

(松村栄子「001にやさしいゆりかご」)

○■ / 池新