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課題集 レンギョウ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ひなまつり / 池新
○窓、愛国心 / 池新
★地球環境問題複合体の / 池新
 地球環境問題複合体のどの部分を切りとり、そこにどのようにアプローチするか、その方法は、人によりさまざまである。それはその人の今までの経歴や現在の対象などに大きく依存しているからだ。しかし、ただ一つ、共通点がある。それは、どの切り方も二項対立に立脚していることだ。その結果、問題の「解決」は、二項対立の一方の極から他方の極へシフトすることとしてしか提唱されてこなかったのである。
 (中略)
 人間/自然の二分法は、そこに優―劣の直線関係をともなう。人間=優れたもの、自然=劣ったモノ。
 この関係は動物どうしの中でも、縮小されて再現される。より人間に近いもの、たとえばチンパンジーや鯨は、より人間から遠いもの、たとえば蟻やクラゲより大切だということになる。商業捕鯨をめぐる一連の動きを思い出していただきたい。ぼくは鯨の肉を食べること自体には反対ではない。どこの民族が何の肉を食おうと勝手である。問題は、何を誰が食べるかではない。ある動物種が絶滅するかどうかである。この点に限ってみれば、商業捕鯨を規制(禁止ではなくて)する必要があるかもしれない。しかし、鯨やトキのようには騒がれもせず、おそらく人間に知られることもなく絶滅していく昆虫は数知れず存在する。
 あるとき、このような意見をアメリカの友人に話したところ、彼女はどうしても納得できないと言い張った。日本で開かれた国際学会のために来日した彼女を含め、十人ぐらいで鍋を囲んでしゃぶしゃぶをつついていたときのことである。
「鯨は人間のように賢い動物だ。それを食べることがどうして許されるのか? あなたはチンパンジーの研究者でしょう(彼女もチンパンジーを研究している)。チンパンジーを食べることが許されますか?」∵
 それは困る。日本には、チンパンジーを食べる習慣はない。だから、日本の食習慣に囲まれて三十年間も過ごしてきたぼくにとっては、鯨を食べることとチンパンジーを食べることは、等価ではない。アフリカの奥地の人々がチンパンジーを食べる風習をもっているとしたら、おそらくぼくは反対するだろう。チンパンジーは貴重な種であり、絶滅寸前だ、という理屈をもって。これは百パーセント、ぼくの(さらに、多くは北側諸国に属しているチンパンジー研究者の)エゴである。アフリカ原住民の食習慣と、北側諸国のチンパンジー研究者の仕事と、どちらを優先させるか、という問題である。チンパンジー研究者や自然保護派は(少なくともぼくは)、自分の興味を優先させる。
 捕鯨反対も同じことだ。しかし、私の友人にはその構造が見えていないようだった。彼女にとっては、鯨を食べること自体が、絶対的な悪なのである。その価値観を押し付けるのは、エゴイズムである。また、鯨を食べていいというのも、エゴイズムである。どちらも、まったく同じ穴の狢なのだ。だからこの論争は、声の大きいほう、あるいは味方の多いほう、力の強いほうが勝つ。
 自然保護は先進国のエゴだ、という批判がよくある。しかしこれは、批判になっていない。当然のことだからだ。頭のてっぺんから足の先まで、先進国エゴなのだ。それ以外に自然保護は存在しえない。だから、先に批判は批判になっていない。自然保護をそもそも否定するのなら話はわかる。しかし、そうではなくて、先進国エゴでない自然保護がある、と思っているとしたら、とんでもない間違いではないだろうか。
 自分たちが食べない物を人が食べていても、自分たちには理解できないから、批判も容易だ。それだけのことである。それだけのことであるのに、あたかもそこに、絶対的な真実や善意、「大文字で始まるTruth」が存在するかのように論じられるのはなぜだろうか。それは、自然と人間の間の差異を、断続ととらえる発想のなせるわざではなかろうか。動物に対する見方の違いである。

○■ / 池新