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課題集 レンギョウ3 の山

○自由な題名 / 池新
○バレンタインデー、もうすぐ春が / 池新

★その子供には、実際、 / 池新
 その子供には、実際、食事が苦痛だった。体内へ色、香り、味のある塊を入れると、何か身が汚れる気がした。空気のような食べ物はないかと思う。腹が減ると飢えは十分感じるのだが、うっかり食べる気はしなかった。床の間の冷たく透き通った水晶の置物に、舌を当てたり、頬を付けたりした。飢えぬいて、頭の中が澄みきったまま、だんだん気が遠くなって行く。それが谷地の池水を隔てて、丘の後ろへ入りかける夕陽を眺めているときででもあると、子供はこのままのめり倒れて死んでも構わないとさえ思う。だが、この場合はくぼんだ腹にきつく締めつけてある帯の間に両手を無理に差し込み、体は前のめりのまま首だけあおのいて、
「お母さあん。」
と呼ぶ。子供の呼んだのは、現在の生みの母のことではなかった。子供は現在の生みの母は家族中でいちばん好きである。けれども子供には、まだほかに自分に「お母さん」と呼ばれる女性があって、どこかにいそうな気がした。自分がいま呼んで、もし「はい」と言ってその女性が目の前に出て来たなら、自分はびっくりして気絶してしまうにちがいないとは思う。しかし、呼ぶことだけは悲しい楽しさだった。
「お母さあん。お母さあん。」
薄紙が風に震えるような声が続いた。
「はあい。」
と返事をして現在の生みの母親が出て来た。
「おや、この子は、こんな所で、どうしたのよ。」
 肩をゆすって顔をのぞき込む。子供は勘違いした母親に対して何だか恥ずかしく、赤くなった。
「だから、二度三度ちゃんとご飯食べておくれと言うのに。さ、ほんとに後生だから。」
 母親はおろおろの声である。こういう心配のあげく、卵と浅草海苔がこの子のいちばん性に合う食べ物だということが見出されたのだった。これなら子供には腹に重苦しいだけで、汚されざるものに感じた。
 子供はまた、ときどきせつない感情が、体のどこからからかわか∵らないで体いっぱいに詰まるのを感じる。そのときは、酸味のある柔らかいものなら何でも噛んだ。生梅や橘の実をもいで来て噛んだ。さみだれの季節になると、子供は都会の中の丘と谷あいにそれらの実の在所を、それらをついばみに来るからすのようによく知っていた。
 子供は、小学校はよく出来た。一度読んだり聞いたりしたものは、すぐわかって乾板のように脳のひだに焼きつけた。子供には学課の容易さがつまらなかった。つまらないという冷淡さが、かえって学課の出来をよくした。
 家の中でも学校でも、みんなはこの子供を別物扱いにした。
 父親と母親とが一室で言い争っていた末、母親は子供のところへ来て、しみじみとした調子で言った。
「ねえ、おまえがあんまりやせていくもんだから学校の先生たちの間で、あれは家庭で健康の注意が足りないからだという話が持ち上がったんだよ。それを聞いて来てお父さんは、ああいう性分だもんだから、わたしに意地悪く当たりなさるんだよ。」
 そこで母親は、畳の上に手をついて、子供に向かってこっくりと頭を下げた。
「どうか頼むから、もっと食べるものを食べて、太っておくれ。そうしてくれないと、わたしは毎晩、いたたまれない気がするから。」
 子供は自分の異常な性質から、いずれは犯すであろうと予感した罪悪を犯した気がした。わるい。母に手をつかせ、おじぎをさせてしまったのだ。頭がかっとなって体に震えが来た。だが不思議にも心はかえって安らかだった。すでに自分は、こんな不幸をして悪人となってしまった。こんなやつなら、自分は滅びてしまっても自分で惜しいとも思うまい。よし、何でも食べてみよう。食べ慣れないものを食べて体が震え、吐いたりもどしたり、その上、体中が濁り腐って死んでしまってもよいとしよう。生きていて始終食べ物の好き嫌いをし、人をも自分をも悩ませるよりその方がましではあるまいか――。
 子供は、平気を装って家のものと同じ食事をした。すぐ吐いた。∵口中や咽喉を極力無感覚に制御したつもりだがみ下した喰べものが、母親以外の女の手が触れたものと思う途端に、胃袋が不意に逆に絞り上げられた――女中の裾から出る剥げた赤いゆもじや飯炊き婆さんの横顔になぞってある黒鬢つけの印象が胸の中を暴力のように掻き廻した。
 兄と姉はいやな顔をした。父親は、子供を横眼でちらりと見たまま、知らん顔をして晩酌の盃を傾けていた。母親は子供の吐きものを始末しながら、恨めしそうに父親の顔を見て、
「それご覧なさい。あたしのせいばかりではないでしょう。この子はこういう性分です」
と嘆息した。しかし、父親に対して母親はなお、おずおずはしていた。

(岡本かの子「鮨」)

○■ / 池新