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課題集 レンギョウ3 の山

○自由な題名 / 池新
○雪や氷、なわとび / 池新

★猫は吐き気がなくなりさえすれば / 池新
 猫は吐き気がなくなりさえすれば、依然として、おとなしく寝ている。このごろでは、じっと身をすくめるようにして、自分の身を支える縁側だけがたよりであるというふうに、いかにも切り詰めたうずくまり方をする。目付きも少し変わってきた。はじめは近い視線に、遠くのものが映るごとく、悄然たるうちに、どこか落ち着きがあったが、それが次第に怪しく動いてきた。けれども目の色はだんだん沈んでゆく。日が落ちてかすかな稲妻があらわれるような気がした。けれども放っておいた。妻も気にかけなかったらしい。子供はむろん猫のいることさえ忘れている。
 ある晩、彼は子供の寝る夜具のすそに腹ばいになっていたが、やがて、自分の捕った魚を取り上げられる時に出すような唸り声をあげた。妻は針仕事に余念がなかった。しばらくすると猫がまた唸った。妻はようやく針の手をやめた。自分は、どうしたんだ、夜中に子供の頭でもかじられちゃ大変だと言った。まさかと妻はまた襦袢のそでを縫いだした。ネコはおりおり唸っていた。
 明くる日は囲炉裏の(ふちに乗ったなり、一日唸っていた。茶をついだり、やかんを取ったりするのが気味が悪いようであった。が、夜になると猫のことは自分も妻もまるで忘れてしまった。猫の死んだのは実にその晩である。朝になって下女が裏の物置きに(まきを出しに行った時は、もう硬くなって、古いへっついの上に倒れていた。
 妻はわざわざその死様を見に行った。それから今までの冷淡に引きかえて急に騒ぎだした。出入りの車夫をたのんで、四角な墓標を買ってきて、何か書いてやってくださいと言う。自分は表に猫の墓と書いて、裏に「この下に稲妻起こる宵あらん」としたためた。車夫はこのまま埋めてもいいんですかと聞いている。まさか火葬にもできないじゃないかと下女が冷やかした。
 子供も急に猫をかわいがりだした。墓標の左右に硝子のびんを二つ活けて、萩の花をたくさん挿した。茶わんに水をくんで、墓の前に置いた。花も水も毎日取り替えられた。三日目の夕方に四つにな∵る女の子が――自分はこの時書斎の窓から見ていた――たった一人墓の前へ来て、しばらく白木の棒を見ていたが、やがて、手に持った、おもちゃの杓子をおろして、猫に供えた茶わんの水をしゃくって飲んだ。それも一度ではない。萩の花の落ちこぼれた水のしたたりは、静かな夕暮れのなかに、幾度か愛子の小さいのどを潤した。
 猫の命日には、妻がきっと一切れの鮭と、鰹節をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れたことがない。ただこのごろでは、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間のたんすの上へ乗せておくようである。

(夏目漱石「猫の墓」)

○■ / 池新