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課題集 レンギョウ3 の山

○自由な題名 / 池新
○新学期、冬休みの思い出 / 池新

★それからまた相当な道のりを / 池新
 それからまた相当な道のりを歩いた。銀蔵の言葉どおり、いたち川は左に曲りながら、木々の繁茂の中を抜けていた。そこから向こうを眺めると、道は極端に細くなっている。自転車を押して歩ける幅ではなかった。竜夫はそこに自転車を置いていくことにした。日が暮れてしまうと風が冷たかった。木々の下はもう全くの闇であった。草むらにビニールを敷いて、四人は足を投げだした。銀蔵が木の枝に懐中電灯をぶらさげた。虫の鳴き声とせせらぎの音が地鳴りのように高まっている。遠い人家の灯が水田の中に点在していて、それらはよく見るとこころもち低地で光っている。知らぬまに道はのぼっていたのである。川のほとりの道はそこから土手のように伸びているのであった。深い草むらが細道を包み込んでいた。
「もうどこらへんまで来たがやろうか?」
という英子の問いに、
「大泉を過ぎて、もうだいぶ歩いたから……」
体をまさぐりながら銀蔵は何かをさがしていた。
「しもうた。時計を忘れて来たちゃ」
英子も千代も時計を持ってこなかった。もちろん竜夫もであった。
「来た道をまた歩いて帰ることになるから、早いこと引き返さんと……」
千代が言った。英子をちゃんと家まで送り届けなければならぬと彼女は思っていた。いまから引き返したとしても、九時を(まわるに違いない。
「なァん、遅うなってもかまわんちゃ。……まだ螢の生まれるところまで来とらんのに」
英子は不満そうに前髪をつまんだ。
「生まれよるとこでないがや。あっちこっちから集まってきてェ、交尾しよるとこがや」
銀蔵は体から甘い酒の匂いを漂わせていた。
「千歩、歩こう」
とそれまで一度も口をきかなかった竜夫が言った。
「千歩行って螢が出なんだら、あきらめて帰るちゃ」
「千五百目に出たらどうするがや」∵
と英子がなさけなさそうに答えたのでみんな笑った。
「よし千五百歩まで歩くちゃ。それで出なんだらあきらめるがや。それに決めたぞ」
 梟の声が頭上から聞こえた。千代の心にその瞬間ある考えが浮かんだ。人里離れた夜道をここからさきに千五百歩進んで、もし螢が出なかったら、引き返そう。そして自分もまた富山に残り、賄い婦をして息子を育てていこう。だがもし螢の大群に遭遇したら、その時は喜三郎の言うように大阪へ行こう。
 立ちあがった千代の膝がかすかに震えた。千代とて、絢爛たる螢の乱舞を一度は見てみたかった。出遭うかどうか判らぬ一生にいっぺんの光景に、千代はこれからの行く末をかけたのであった。
 また梟が鳴いた。四人が歩き出すと、虫の声がぴたっとやみ、その深い静寂の上に蒼い月が輝いた。そして再び虫たちの声が地の底からうねってきた。
 道はさらにのぼり、田に敷かれた水がはるか足元で月光を弾いている。川の音も遠くなり懐中電灯に照らされた部分と人家の灯以外、何も見えなかった。
 せせらぎの響きが左側からだんだん近づいてきて、それにそって道も左手に曲がっていた。その道を曲がりきり、月光が弾け散る川面を眼下に見た瞬間、四人は声もたてずその場に金縛りになった。まだ五百歩も歩いていなかった。何万何十万もの螢火が、川のふちで静かにうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に描いていた華麗なおとぎ絵ではなかったのである。
 螢の大群は、滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭をはらんで光の澱と化し、天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた。
 四人はただ立ちつくしていた。長い間そうしていた。
 やがて銀蔵が静かに呟いた。
「どんなもんじゃ、見事に当たったぞォ……」
「ほんとに、……凄いねェ」∵
 千代も無意識にそう言った。そして、嘘でなかったねェと言いながら、草の上に腰をおろした。夜露に濡れることなど眼中になかった。嘘ではなかった。千代は心からそう思った。この切ない、哀しいばかりに蒼く瞬いている光の塊に魂を注いでいると、これまでのことがすべて嘘ではなかった、その時その時、何もかも嘘ではなかったと思いなされてくるのである。彼女は膝頭に自分の顔をのせて身を屈めた。全身が冷えきっていた。
「おったねェ……」
耳元に囁きかけてくる英子の息が、竜夫の中に染み通ってきた。
「……交尾しとるがや。また次の螢を生みよるがや」
銀蔵の口調は熱にうかされているように、心なしか喘いでいた。
「傍まで降りて行こうか?」
と竜夫が言った。
「なん、いやや」
英子は竜夫のベルトをつかんで引き留めた。
「ここから見るだけでええがや」
「なして?」
英子はそれには答えず、ベルトをつかんでいる手の力を強めてきた。竜夫は川のほとりに降りていった。
(っちゃん、やめよお、ねえ、行かんでおこう」
 何度も呟きながら、英子はそれでも竜夫についてきた。間近で見ると、螢火は数条の波のようにゆるやかに動いていた。震えるように発光したかと思うと、力尽きるように萎えていく。そのいつ果てるともない点滅の繰り返しが何万何十万と身を寄せ合って、いま切なくわびしい一塊の生命を形づくっていた。

(宮本輝「螢川」)

○■ / 池新