昨日394 今日405 合計153159
課題集 レンギョウ の山

★大相撲をはじめて見にいったとき(感)/ 池新
 【1】大相撲をはじめて見にいったとき、びっくりしたことがある。それは、取り組み中、観客席が四六時中ざわざわしていて、呼び出しから仕切り、立ち会い、組み合い、そして勝負までのしだいに盛り上がっていくはずの緊迫感がぜんぜんないということだ。【2】それどころか、そもそも立ち会いの瞬間も注意をこらしていないと、すぐ見逃してしまい、眼を上げたら勝負は終わっていた、ということもしばしばだ。【3】テレビの相撲中継では、懸賞の提供者紹介や客の呼び出しなどの館内放送や観客席のざわめきは遮断されていて、制限時間いっぱいになってから観客の声援を入れるよう演出してあるから、下のほうの取り組みでさえ、一抹の緊張感がただようわけだ。【4】ではなぜ館内がざわついているのか。答えはかんたんだ。一枡四人食べ物を拡げ、酒やビールを呑みながら、声をひそめることもなくおしゃべりに興じているからだ。食べながら見る、見ながらしゃべる。取り組み表の紙をばしゃばしゃさせて、勝敗を記入する。【5】あいだに前をひっきりなしにお茶屋のひとが食事やお茶やみやげ物を運ぶ。ざわついて当然だ。(中略)
 演ずる者と見る者、つまり演じられている舞台とそれを鑑賞する観客とを空間的に分離すること、そういう制度になれてしまうと、大相撲とか歌舞伎の楽しみかたに、はじめはとまどう。【6】けれども、今わたしたちが劇場やコンサートホールで入場券を買って鑑賞する西洋の演劇や音楽にしたって、もともとは人びとでなんとなくざわついている宮廷の庭や居間で、あるいは街の芝居小屋や路上で、催しとして行われていたわけで、必ずしも純粋な鑑賞の対象であったわけではない。【7】渡辺裕によれば、たとえば十八世紀の演奏会は極端な言い方をすると「音楽のあるパーティー」といった趣の社交の場だったようで、客のおしゃべりがうるさくて、声楽曲を聴く場合は歌詞を印刷したプログラムが配られることもあったそうである。
 【8】「おしゃべりだけではない。聴衆は演奏中にさまざまな「副業」を行っていた。ツェルターは後に一七七四年のベルリンでのコ∵ンサートの回想の中で、「無数のパイプから立ち上った煙草の煙のもやの中で指揮をすることは容易ではなかったろう」と述べている。【9】また一七八四年のエアフルトでの演奏会の記録によれば、ビールや煙草が認められていただけでなく「とりわけ音楽が好きでない人々は気晴らしにトランプをやっており、ご婦人方は徐々にそちらに加わっていった」。【0】フランクフルトのコンサート協会が一八〇六年に定めた規則に「犬を連れてくることは禁止」と書かれていたというのも興味深い。そんなことをわざわざ断らなければならないというのは、そういうことを何とも思っていない輩がいたということのあらわれである。(渡辺格「聴衆の誕生」)」
 じっと息をこらして、作品の世界にひたりきるという「集中的聴取」の思想はまだなかったわけである。いま、たまたま思想ということばを使ったが、居ずまいを正して作品に集中するというような聴取の態度はかならずしも自明のものではなく、「芸術の享受」あるいは「作品の鑑賞」という一つの思想をバックボーンとして、制度化されてきた態度にほかならないということである。そしてそのために、演ずる者、演奏する者と見る者、聴く者とを空間的に分割する装置が、劇場やコンサート・ホールとして建造されたのだ。
 「隔たり」ということが、ここでポイントとなる。演ずる者、演奏する者と見る者、聴く者、つまりは、見られるものと見るものとを空間的に分離する装置のなかで、二つの距離が発生する。主体と対象との隔たりと、主体と唯の主体との隔たりである。
 見る主体と見られる対象との隔たりは、芸術の場合、「鑑賞」という概念と連動している。愉しみの「享受」というよりもむしろ、距離を隔てて「鑑賞」すべき客体として「芸術作品」が主体から空間的に分離されていくそのプロセスを支配していたのは、近代芸術における「美の自律性」という考えかた、「美」はそれ自体としての独立の価値をもつという考えかただ。「芸術作品」は、それが創られた時代や環境を超えた独自の「美的」世界をもつ。それが置かれた状況、あるいはそれを前にした鑑賞者によって価値∵を変えるなどということは、本来、「芸術作品」にとってありえないことなのだ。そのためには、これらの作品は味覚とか嗅覚、触覚といった、そのつどの状況によって感覚内容が変化するような「低級」な感覚に支えられるようなものであってはならない。そうではなくて、視覚や聴覚のような、距離をおいた感覚、対象と接触したり混じりあったりすることのない「普遍的な感覚」によって支えられるのでなければならない、とされるのである。
 さて「隔たり」のもう一つの意味は、他者との隔たりということである。たとえばコンサートでも演劇でも、開演にあたってまず客席の照明が落とされる。これはまずは、見るものと見られるもの、演奏するものと聴くものとを空間的に分離するためもあるが(客席を暗くすることで、演奏家や俳優は自分は見る人ではなく見られるばかりの人になり観客は見られることなく見るだけの人になる)、同時に、まわりにいる他の人間たちから個人を分離し、隔離するためのものでもある。観客が、他人にじゃまされることなく、個人として作品鑑賞に集中できるよう、作品世界に投入できるように、照明が落とされるのだ。だから建物は、純粋に「作品」の世界だけに集中できるよう、周囲の騒音を遮断する構造になっているし、観客は観客で、持ち物、パンフレット、咳払いなどで余計な物音を立てることのないよう注意しなければならないのである。
 一九六〇年代に音楽や演劇や美術の世界に起こった反逆、例えば演奏中に客が絶叫するようなライヴ演奏とか、観客を演劇の中に巻き込み、ストーリー展開のなかに偶然的な要素をどんどん導入していくハプニングなどのパフォーマンスやテント小屋の実験演劇(路上で予告なしに劇が開始されることもあった)、アクションペインティングなどは、まさにこのような近代の「芸術鑑賞」という制度そのものに攻撃の照準を合わせていたのであった。

 (鷲田清一)