昨日394 今日161 合計152915
課題集 ライラック3 の山

○自由な題名 / 池新
○学校、危機意識 / 池新

★最近、「手づくりの味」ということが / 池新
 最近、「手づくりの味」ということが盛んに評価されている。文字どおり人間が素手で、せいぜい小道具を使う程度で、つまり大型の機械力を頼らずに作り出した製品についていわれるのが、この言葉である。かつては質素な日用品であり、今や趣味の対象と化した産物に対し、「民芸品」または「工芸品」という新しい呼称が付けられるようになった。手づくりの味の再評価とは、言い方をかえると、民芸品ブームということになる。
 伝統保存のため作られているという薩摩がすりの場合を考えると、必需品ではないまでも、日常の衣類として着ることが可能である。つまり現代社会において、実用品としての機能も、まだ保持しているわけである。ところがもっと極端になると、例えば自分たちで手づくりの「わらじ」をこしらえ、これを履いて楽しんでいるグループがある。わらじは、実用的意味を今ではほとんど持っていない。そういう非日常的な希少性だけが、その存在を支える価値だと言えよう。
 民芸品と呼ばれる産物と、その昔の同種の製品とが似て非なるものであることは、製作された環境に目を向けた時、明らかになってくる。現在、そのような民芸品を職業として作っている。そういう人の数は多くないが、世間はこの人々のことを、職人よりも芸術家として待遇する。また、職業ではなく趣味として、手づくりに精出している人々もいる。作ること自体が楽しみになっている。生活に追われているだけでは、とてもできないことで、ある程度のゆとりがあればこそ、そういう世界に浸れる。これは一種のぜいたくと言えるであろう。日曜大工にしても同様で、家計の補助にと、無理して作っている人もないことはないかもしれないが、それが主流とは考えられない。日曜大工のほとんどは、余暇の利用を兼ねた一石二鳥にちがいないのである。今の民芸品が日用品だったその昔、こういった状況はとうてい考えられなかった。日用品の大部分は、貧しい民衆が生活に追われ続けながら汗水たらして作っていたのである。 最近の「手づくり」への回顧趣味を見たとき、このあたりに根本的な誤解があるように感じられてならない。民芸品の独自の個性を愛好することは自由である。しかし、それはあくまでも民芸品であって、その昔の相似の製品とは別のものである。民芸品をな∵がめ、「明治以前の日本人はこんなすばらしい技芸を持っていたのに、今は全く顧みず、機械文明のあとばかり追っている。」と、したり顔に批判する現代人こそ、恐れを感じてしかるべきではあるまいか。かつてそれらの産物を作り出した民衆が、その境地からの脱出をどれほど渇望し続けたことか。その中から生まれたものこそ、今の民芸品の原型だったのである。

(筑波常治「自然と文明の対決」)

○■ / 池新