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課題集 ライラック3 の山

○自由な題名 / 池新
○計画 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○書物はいつの世にも / 池新
 書物はいつの世にもゆっくりと読むべきものだと私は思う。こんなにも本がたくさん出ているのに、と言うかもしれない。しかし、同じようにレコードだってたくさん出ている。展覧会も至る所で開かれている。だからといって、音楽を能率的に聴き、絵画を急いで見る人はいまい。それなのに、こと本に関する限り速読を目指すのはどういうわけなのだろう。おそらく、書物というものが鑑賞するというより知識の伝授の媒体と思われているせいであろう。確かに本とレコードでは違う。本のほうがはるかに多目的である。鑑賞するというよりは、情報を得たいために読まれる本のほうがずっと多いだろう。そんなことは十分承知の上で、なおかつ、私は遅読ちどくを勧める。 
 速く読むということは一見能率的のように思えるが、結局は損をすることになる。私も必要に迫られて急いで読まざるを得ないことがある。ところが、急いでよんだ本に限って、あとに何も残っていない。そこで、もう一度読み直さなければならないことになる。そして、改めてゆっくり読み直してみると、最初に読み飛ばしたそんな読書が何の意味も持っていないどころか、全く読み違えていたことに驚くのである。こうなると、速読するよりは読まないほうがましである。なぜなら、誤解は無知よりも有害だからである。
 そんなことを言っても、必要に迫られて読まなければならない場合が多いではないか、と言うかもしれない。しかし、必要に迫られたらなおのことゆっくり読むべきである。必要に迫られる以上、あくまで誤解は許されないからだ。たとえ明日までにどうしてもこの一冊を読み上げねばならないという必要に迫られた場合でも、ゆっくりと読み、読めるところまで読んで本を閉じたらいい。そのほうが、いい加減に斜め読みをするよりは、はるかに得るところが大きい。
 遅読ちどくを勧めるもう一つの理由は、いくら速く読んでみたところでたかが知れているということである。どんなに速読の技術を身に付けたところで、二倍のスピードで読めるものではない。仮に二倍の速度で読めたとしても、そうした速読から読み取ることができるのは、ゆっくり読んだときの二分の一に過ぎない。つまり、半分しか読み取らないのだから二倍の速さで読めるわけだ。しかも、その半∵分が前に述べたように誤読に陥りやすいとすれば、速読というものがいかに無意味であるかに気付くであろう。実際、本というものはそんなにたくさん読めるものではない。わずかな本しか読めないからこそ、何を読むかその選択が大切になる。つまり、ゆっくり読むことは、それだけ良書を選ばせる効果を持つのである。
 わずかな本しか読めなかったなら、それだけ視野は狭くなり、とても現代に追い付いていけないと言うかもしれない。確かにそういった不安が現代人を速読へと駆り立てている。だが、そんなことは決してない。十冊読む人よりも五冊読む人のほうが視野が広く、立派な見識を身に付けているというようなことはざらにあるのだ。読書の価値は何冊読んだかで決まるのではなく、どんな本をどのように読んだかで決まるのである。
 私は、読書とは「よしの髄から天井をのぞく」ことだと思っている。ふつうこの言葉は、そんなちっぽけな穴から天をのぞいてみても、広大な天のほんのわずかな部分が見えるだけだ、とその視野の狭さを笑ったものと解されている。確かにそういう意味だろう。しかし、実際にのぞいてみると分かるが、よしの髄からでも結構天は仰げるのである。いや、むしろ小さな穴からのぞいたほうが対象がよく見えることも多い。 
とにかく、本はゆっくり読むに限る。ゆっくり読めば一冊の本はどれほど多くを語ってくれることか。読書とはただそこに書かれていることを理解するという単純な作業なのではなく、いかにして、書物により多くのことを語らせるかという技術なのである。それは、優れたインタビュアーが相手からおもしろい話を十分に引き出すことができるようなものだ。性急な読書では本は何も語ってくれはしない。仮にその内容を要領よくつかんだとしても、ただそれだけの話である。それでは本を読んだというより、本をつかんだというに過ぎない。
 読書とはあくまで著者と読み手の対話なのである。読み手が時間をかけてゆっくりと問いかけなければ、著者は、それこそ通り一遍の答しかしてくれないのである。

(森本哲郎「遅読ちどく術」)