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課題集 ライラック3 の山

○自由な題名 / 池新
○服 / 池新

★ひとりの人間の内部に / 池新
 ひとりの人間の内部に発生している状態と極めてよく似た状態が、もうひとりの人間の心の内部に生ずる過程、それが共感である。そして、それはしばしば、生理的な次元でも発生する。
 たとえば、痛みの経験だが、母親と子どもといった細やかな関係のなかでは、痛みに単に想像上経験されるだけでなく、実際の生理的な痛みとして体験されることがある。子供が、「痛い」というたびに、母親もその部分がほんとうに痛くなったりするのだ。
 もっと単純な生理的共感は、たとえば、乳離れしたばかりの幼児にものを食べさせたりする時の親子の情景を思い浮かべてみればよくわかる。子どもにアーンと口をあけさせるとき、自然と親の口も、そんなふうに開かれてしまう。親が口をあけるから子どもがそれを模倣しているのだともみえるが、子どもが口をあけるのに釣りこまれて、親が口をあけてしまうようにもみえる。そんな経験は、だれでももっているはずである。
 親しい人間同士を形容して、「ともに笑い、ともに泣く」という表現が使われるのは、このような共感能力と関係する。ある人間のよろこびがそのままもうひとりの人間のよろこびになる、というのは、ふたりの人間の間に高度な共感が成立するということだ。ひとの悲しい経験に「もらい泣き」したり、おもしろい話に「釣りこまれ」たりという表現は、すべて人間同士の間ではたらく共感のふしぎな作用を表しているといってよい。この共感作用は、「同一化」ということばで説明される過程とかさなりあう。同一化とは、相手方の置かれている状況だの、相手方の内部で発生している状態だのと似た状況や状態を体験することだ。それは、われわれが映画を見たり、小説を読んだりするときのことを思い出してみたらいい。
 たとえば、手に汗をにぎるような大活劇というのがある。映画館のスクリーンの上では、ビルの屋根の上をとんで渡ったり、スポーツカーで追跡をしたり、という活劇が展開している。それを見ているうちに、われわれはその活劇に釣りこまれる。スポーツカーが走りまわっている場面では、あたかも自分がその自動車を運転しているような気持ちになって、目の前に突然ガケが現れたりするとハラハラしてしまう。ビルの屋上に追いつめられて、隣のビルにとび∵移る場面では胸がドキドキする。まさしく「手に汗にぎる」のである。そして、そのときのわれわれは、映画の中の登場人物に自分自身を置きかえているとはいえないか。
 小説を読んでいるときもそうだ。主人公の境遇だの、人生の設計の仕方だの、われわれは小説を読み進めるにつれて、主人公の立場と自分とを密着させてしまう。主人公が悲しければ、読者であるわれわれも悲しくなる。主人公がよろこべばわれわれもよろこぶ。われわれは主人公の「身になって」しまうのである。
 共感あるいは同一化が、どんなふうにしてわれわれの内部で発生するのかはよくわかっていない。しかし、われわれは事実の問題、あるいは体験の問題として、共感の現象があることを知っている。われわれは「相手の身になる」能力をもっているのである。

(加藤秀俊「人間関係」)

○■ / 池新