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課題集 ライラック3 の山

○自由な題名 / 池新
○個性、勉強の意味 / 池新
○薬、人工と自然 / 池新
★なまぬるいほこりがたつ焼津街道を / 池新
 なまぬるいほこりがたつ焼津街道を、海の方に向かって歩いていると、前を行く若い女の人があった。上林先生だった。髪にも、水色のスカートにもおぼえがあったし、歩く時の肩の辺りの動かし方も、そうだった。彼は駆けて行き、息を弾ませながら
――先生、と声をかけた。彼女は彼が近づくのを待っていてくれた。彼は追いすがると、自分でも思い掛けないことを言った。
――僕は物凄い油田を見ました。
またいってしまった、と彼は思った。彼女はちょっと目を見張って、それなりに生まじめな表情になって、しばらく考えていた。彼には、なんだかしゃくにさわることがあったが、それを抑えなければ……、という自制も働いていた。彼は自分のことを、緑シジミの幼虫が、暗くみずみずしい葉陰で、一人で転しているように感じた。
――アメリカよりも、ボルネオやコーカサスよりも大きな油田です。
 気がつくと、彼はそう深くいいつのっていた。彼女は、浮世絵人形のような表情を動かしはしなかった。彼は自分が自然にしゃべっているのを感じた。そして、なにをいってもいいのなら、いうことは一杯あるぞ、と思った。自分で自分に深傷ふかでを負わせてしまい、血が止まらなくなった感じだった。彼はまたなにかいおうとした。すると彼女が、いつもの口調できいた。
――それは、どこなの。
――大井川の川尻です。
――大井川の川尻……。あんなところだったの、と彼女は少し声をふるわせていった。浩には、彼女が胸を弾ませているのがわかった。駄目だと思いながらもたたいた扉が、意外にも手応えがあって動き始めたようなことだった。彼は自分の嘘の効果が、おそろしく美しく彼女に表れたことに呆然としていた。∵
――大井川の鉄橋から見えるかしら。
――見えると思いますけど。
――それじゃ、柚木ゆうきさん、わたしこれから見に行くわ。そこへ連れて行って。
――鞄をうちへ置いてきていいですか。
――鞄はいいわよ。持っていらっしゃい。
――……。
――遅くなってお母さんが心配したら、先生があとでわけ話して上げるから。
――……。
――軽便けいべんで行くのね。
――え、ええ軽便けいべんでいいんです。
 浩は仕方なく歩き出した。軽便の駅までは大分距離があった。うしろでは上林先生の運動靴の足音が、ひっそりと、しかし確実にしていた。彼はどこかへ迷い込みたかった。迷ってしまったような芝居をしたかった。だが、彼の前にあったのは、そんな芝居に紛れて行きようもない、一から十まで知りつくした道だった。

(小川国夫『生のさ中に』)

○■ / 池新