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課題集 ライラック3 の山

○自由な題名 / 池新
○本 / 池新

★日本人の文化は、共感の文化であると / 池新
 日本人の文化は、共感の文化であるといわれる。共感は、発声されたことばを必要としない。目を見合えば、相手の心の動き、感情がわかり、「目は口ほどにものを言う」。日本人の目は視覚器官であるばかりか、人間の感情を表現すべき重要な言語器官でもあるから、「目くばり」には常に留意する必要があり、めったやたらに他人に対し視線を向けてはならない。電車の中で腰掛けている人々がいっせいに眠っているのは、まさに世界の奇観であり、日本に来たことのあるパリのお嬢さんは、「本当にびっくりした。」と語っていたが、これは、単に日ごろの疲労や栄養不足からくる習性とばかりは言い切れまい。目と目を合わせてはならぬという、いわば意識下の意識が、座席に腰を下ろしたとたんに作動し、条件反射的に人々を眠らせてしまうのだ。
 日本人は、したがって、「対話」によって自他の相違点と共通性を確認することを好まず、またその必要もなく、外国語は常に不得手である。彼は、独り「文字」を読み、独り写真を撮り、独り映画を、独りテレビを見たとしても、内心で日本人を共感し合うことができる。したがって彼は、日本国内、日本人集団のうちにあって初めて人間としての価値をもちうる。そして、いったんこれから離れたが最後、赤ん坊同然となり、あたかも虎や狼のいる森の中に独り置かれたときのように、周囲の「外人」に言い知れぬ恐怖感を抱かざるをえないことになる。
 つまり日本人にとっては、ことばがなくても通じ合う者だけが、とどのつまりは人間なのであり、それぞれ相手の目の中から、一瞬のうちに自分に対する好意・敵意あるいは無関心を読み取る。まさに、「目は心の窓」であり、集団を形づくっているのは、このような情緒反応である。それ以外のもの、例えば互いの意思を確認し合うための言語などは、本来的な必要性をもっていない。仲間うちとわかれば親しげにおしゃべりが始まり、仲間でないとわかれば形式的なことばが交わされるか無言かのどちらかがあるにすぎない。仲間うちであろうとなかろうと、人間関係にとってだいじなのは「見合い」の情緒反応であり、「話し合い」のことばは、あってもなくてもいいもの、余計なもの、あるいはしらじらしいも∵のとしか受け取らない。
 言語により形づくられる欧米の思想は、一人一人がはっきりした声で自己を表現するところから生み出されたものである。日本人の場合、内心ではそれぞれ違った考えを抱いてはいるのだが、それは決して声にならず、結果として情緒的な一体化が生み出される。したがって、個人的には不平・不満がいっぱいありながら、国単位・地方単位・企業単位・部課単位で統一的な人格が構成されるために、本来個人的であるべき欧米の諸思想は、結局、「借り着」でしかない。菅原道真すがわらのみちざねの唱えた和魂漢才が、幕末・明治以来、和魂洋才わこんようさいに形を変えたとはいえ、実質は、九世紀以来、どれだけ変化したといえるであろうか。日本人は、コミュニケーションの手段としての言語を本当の意味ではもっていない。
 イギリスでは今なお、例えばロンドン塔の前などで、小さな個人演説会が開かれている。人々は、弁士の話に熱心に聞き入り、議論し合う。傍らには、サンドイッチやコーヒーを売る屋台も店を出している。この情報化時代にそんな牧歌的なミニ−コミが何になる。年寄りの暇つぶしにすぎないではないか、と受け取るむきが多いかもしれない。しかし、その神経はおよそ正常とはいいがたい。
 マス−コミの時代、情報化社会の時代であればこそ、このような個人レベルでの日常的議論が必要なのだ。マス−コミの独占的な世界操作をチェックし、無意識的にせよマス−コミが犯す過ちを防ぐために、また、自らが情報のうずに巻き込まれて、風に舞う木の葉のごとく右往左往するはめに陥らないために、ほかにどんな方法があるというのか。議論すなわちことばによる闘争を通して、私たちは、初めて自分と他人との相違と共通性を明確に認識し、そこから相互依存の共同生活の論理を発見していくことができる。そして、個々人すべてがこうして自らを客観化しえたとき、初めてマス−コミは自らのものとなり、いたずらに過剰な情報に振り回されることなく、これを、自分なりに整理しうる強靭な精神態度、主体的な知性が存立可能となるのだ。
(木村尚三郎しょうざぶろうの文章)

○■ / 池新