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課題集 ライラック の山

★現代では学術研究の場において(感)/ 池新
 【1】現代では学術研究の場においてだけでなく、企業活動の場においてもまた専門化がすすんでいます。それぞれの場で陣頭にたって仕事を押し進めているのは専門家たちです。現代は、まさに専門家たちの時代であるというべきかもしれません。【2】それだけにまた現代は「専門バカ」たちの時代となる危険性もおおいに孕んでいるのです。
 ただの専門家というのは、いわば塀に囲まれた住居の中だけで外からの情報を得ることもなく、生活している人みたいなものです。【3】塀の中のことは四六時中よく見て(まわっているのですが、塀の外はなにも見えないし、かといって外へ出かけていく余裕もないのです。専門家は自分の専門とする事柄についてはよく知っていても、ただそれだけだったらほとんどすべての事柄については無知だということになります。
 【4】ところが、自分の専門外の事柄についてある程度理解することができ、思慮分別を伴った言論を展開できる人たちがいるのです。その言論は当の専門家をもうなずかせたり、一考を促したりすることがあるのです。【5】そういった言論の基盤となるのは、何なのでしょうか。それはもはや専門的な知識や技術ではなく、常識や一般的教養なのです。
 アリストテレスは、『トピカ』で、大衆を相手に話し合うには、「エンドクサ」(通念)に基づいて言論を展開することが有効だとしています。【6】大衆を相手にした場合、大衆の「ドクサ」(見解・思いなし)を枚挙して、ほかの人たちの意見にではなく、かれら自身の意見に基づいて論ぜよ、ということです。
 大衆というのは、ここでは専門的知識をもたない人たちのことを意味しています。【7】私たち一人一人が皆、自分の専門外の事柄に関してはそういう大衆の一人だといえるでしょう。専門家がきわめて精確な専門的知識に基づいて厳密な論証をおこなっても、専門家以外の大衆には難しくてついていけないわけです。
 【8】「エンドクサ」「人々に共通な見解」というのは、常識にほかなりません。人が自分の専門外の事柄について考え、論じるときに拠りどころとなるのは常識です。そればかりではありません。【9】専∵門家が自分の専門の事柄について語る場合でも、専門的知識をもたない大衆を相手にするならば、常識を通じてでなければわかってはもらえないでしょう。常識というのは、時代によっても社会によっても異なります。【0】たとえば昔は「地球は不動である」というのが常識であったのが、いまは「地球は動く」というのが常識です。しかしまた、たとえば基本的人権の擁護というのはいまや世界の常識であっても、その人権の内容が異なるとすれば、基本的人権に関するある国での常識が他の国では通用しないこともあるわけです。
 常識は専門的知識ほど精確ではありません。また常識がすべて専門的知識に由来するわけでもありません。たんに皆がそう思っているというだけの常識もあります。しかし専門的な事柄に関する常識というのは、専門家の得た知識が専門家でない大衆にもわかりやすく通俗化されることによって形成されるのです。そのような常識は知識に次ぐ確かさをもつということができるでしょう。常識は非専門家(大衆)からの、または非専門家向けの、あるいは非専門家どうしの、言論の基盤なのです。
 常識は言論の大きな基盤です。けれども上手な言論というだけでなく、知恵を伴う言論ということになると、教養が基盤となるでしょう。
 教養は専門的技術(知識)と区別されています。プラトンは、その違いをいくつかの対話篇のなかで指摘しています。たとえば『プロタゴラス』では、人が読み書きの先生や竪琴の先生や体育の先生から学ぶものは、一個の素人としての自由人にふさわしいものとして、教養のために学ぶのだ、ということが言われています。医術や彫刻術のように、専門家(本職の師匠)になるための技術として学ぶのではないということなのです。
 教養というのは、その道の専門家になるための技術(知識)として学ばれるのではなく、一個の素人としての自由人にふさわしいものとして学ばれるのだということが注目されます。

(浅野楢英ならひで『論証のレトリック』による)