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課題集 ライラック の山

○自由な題名 / 池新
○運 / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○私たちにとって、学校教育は / 池新
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
 私ども彫刻に志すものが、人の顔を見て先ず心をひかれるのは、皮膚や毛の色とか、目鼻だち口もと等のこまかいところよりも、もっと根本的な彫刻的の美しさにあります。すなわち一つの塊りとしての美しさ、凸凹、面、線等がつくる美しさであります。
 人の顔は、たとえば巧みを極めた、不思議な技法でつくられた建築です。目鼻や口はこの建築の細部の装飾のようなものでしょう。この建築の構造の不思議なこと、容易に人のうかがい知るを許さぬ処です。この秘密を開く事そこに私どもの苦しみも喜びも一にかかっているのであります。
 先頃八月の初旬、信州に彫刻の講習会がありました。どういう方法でどんな風にやったらよいものかと、最初に相談を受けました時、私は人の顔について研究する事をすすめました。生人のモデルと塑造台と粘土を用意して置く事、そして一人のモデルに研究者は八人位を限りとし、各自モデルについて見るところを粘土を以ってつくって見る、粘土をひねってはモデルを見る、こういった方法で勉強を続けて行ったら、その間にだんだん彫刻の会得も出来て行くでしょうと答えて置きました。
 人の顔なら誰しも平生見馴れている処ですから、取りつきにくい事もないでしょう。しかし実際にこうしてやり出して見たら、平生見慣れている人間の顔が実はどんなにむつかしいものかという事に気がつくでしょう。それは平生ぼんやりものを見ているからです。で、こうしてだんだんものを見る修行が積まれてくると、見馴れている人間の顔にも、実に微妙にして複雑極まるいろいろの仕組みのある事がわかって来ましょう。して見れば、毎日同じ顔の人間の顔を見てくらすという、一見つまらなさそうな仕事も決して無意義ではありますまい、となおいい添えて置きました。
 考えて見ると私は人の顔を見る事が余程好きのようです。以前、私は長らく苦しい境遇に置かれていました。ほとんど慰めのない生活でした。その中にあって、唯一の慰めは人の顔を見る事でした。電車の中で向かい側にいる人々の顔を見ているとすべてを忘れ∵る事が出来ました。電車賃のない時は、麹町の勤め先から本郷の自宅まで、空腹と疲労のからだをひきずって歩いて帰る事さえしばしばありました。その折りさえ途上に出会う沢山の人々の顔が見られるので、どんなに苦痛をやわらげられたでしょう。
 本を読むよりも、人の顔を見る方がどんなによいか知れない、とよくその頃思ったものです。もっとも本を読む暇も多くは持たなかったけれど、本を読むよりも私は人の顔から、どんなに多くの学問をしましたろう。
 相者は人の顔を見て、その人の過去現在未来、その他いろいろの事をいいあてますが、全く人の顔にはその人の事は何でもありありと書いてあるものです。ただこれを読む事が大変むずかしいのです。
 友人中川一政氏がかつていった事に、芸術家は作品を作るが、一方においておのずからその顔を作ってゆくものであるとありましたが、まことに然りと思います。芸術家でなくても誰も人の生活はその顔をつくることにあるともいえます。
 人間が一生の苦心でつくられたその顔は、その人と共にどこへ行くのですか。私は友人知人の死面をいくつか石膏にとったことがあります。死面はぬけがらです。その人の顔はその人の死と共に何処かへいってしまうのです。思うと全く神秘です。
 言葉は嘘をいう事ができましょうが、顔は人を偽る事ができません。話を言葉だけで聞く人は真相を誤る事がありますが、顔から聞く時は先ず誤る事がありません。
 電話というものがあります。便利なものだとは思います。が、私はどうも電話を好みません。それはなぜかと考えて見るに、相手の顔が見えないという事に大部分その原因があるようです。ほんの通り一遍の用談だけは済まされますが、少しこみ入った話になると電話では充分通じません。こう感じる人は恐らく私ばかりではなかろうと思います。で、いかに私どもは平生顔によって人と話しているかという事がわかります。顔がものをいい、顔がものを聞く、この働きは全く不思議です。

(石井鶴三『顔』)∵
 【1】私たちにとって、学校教育はなぜ必要なのか。別の言い方をすれば、それぞれの実生活の経験の積み重ねに任せるのではなく、なぜ教育のための特別な場所が必要なのか。この問いかけに対しては、いくつかの理由が考えられます。
 【2】第一に、世界はあまりにも広く、私たちがそのすべてを経験することはできないからです。しかも、私たちが世界と呼んでいるものの多くはすでに失われた過去であり、現実と呼んでいるものの半ば以上は現実には存在しません。【3】歴史と呼ばれ、人類の記憶の中にしかないものがほとんどでしょう。経験は記憶によって濾過され、それと照合されて、初めて経験として完成されます。
 森鴎外の短編小説『サフラン』に、サフランをめぐる次のような思い出話が出てきます。【4】この植物の名は本で早くから知っていたが、まだ実物を見たことがない。そこで医師であった父親に頼み、薬棚の抽斗から乾燥したサフランを出してもらう。「名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりではない。【5】すべての物にある。」といった感慨を綴った作品ですが、考えてみれば、われわれがいうところの現実とは、半ば以上、森鴎外におけるサフランのようなものではないでしょうか。
 第二に、私たちが何らかの現実行動をうまくなしとげるためには、行動をいったん棚上げし、目的を一時保留して行動しなければならないからです。【6】言い換えれば、現実行動にあたって失敗を避けるには、まずもって練習をしなければなりません。野球選手のバットの素振すぶりが好例でしょう。飛んで来てもいないボールを相手にバットを振ります。そのことによって、彼はバッティングという行為のプロセスを意識し、身に付けようとしているわけです。
 【7】私たちの行動能力は、単純な経験をいくら繰り返しても、決して高まることはありません。現実行動は練習のうえで初めて成り立ちます。どんな技術であれ、技術を駆使するプロセスを絶えず見直し、身に付け直さなければならないのです。【8】学校というものは、その意味で、現実行動からひとまず離れて、行動のプロセスを教える場といってもいいでしょう。つまり教室は行動の場ではなくて、練習の場なのです。∵
 また、私たちが行動するためには型を持つ必要があります。【9】武術一つを取り上げても明らかでしょう。刀をただ振り回していれば強くなるというものではありません。面を打ち、籠手こてを打ち、突きを入れるという型をまず身に付け、それが、まるで無意識であるかのように流露してくるところに武術は成立します。【0】型は、行為のプロセスを支えてくれるのです。
 日常の作法もまた同様でしょう。人間、悲しいときにはなりふりかまわず泣きたくなるものですが、そこに悲しみ方の型が入ってきたとき、初めて私たちは悲しみに耐える能力も身に付けることができるのです。芥川龍之介の短編小説『手巾ハンカチ』に、息子を亡くしたばかりの婦人が端然と客を迎えながら、しかし、机の下では「膝の上の手巾ハンカチを、両手で裂かないばかりにかたく、握っている。」という場面があります。つまり、「顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。」とあるように、彼女は「息子を亡くした母」という型を、あるいは役をその場で演じることによって、身も世もない悲しみに耐えることができたし、また醜態をさらさずに済んだわけです。
 教育が必要な理由の最後は、多くの知識が経験からは直接に学べないからです。
 現代の先進社会の人間ならば、だれでも地動説が正しいということを知っています。しかし、だれ一人として地球が太陽の周りを回っているのを見た人もいなければ、その動きを実感した人もいません。日常では、太陽が朝は東の空に上って、夕方は西の空へ沈みます。昔の人も現代人もそれを経験上知っていますが、真実はそうではないということを、知識として身に付けているのが現代人でしょう。

山崎正和「文明としての教育」の文章による)