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課題集 ライラック の山

★科学文明の発達は(感)/ 池新
 【1】科学文明の発達は、人間の日常から手間をどんどん省く。お店の入口に立てばドアは自動的に開き、階段のそばには必ずエスカレーターがある。ボタンを押せばテレビがつき、クーラーが動きだし、音楽が流れはじめる。【2】電気製品のなかでも、特にAV機器においては、リモコンのないものは商品になりえないような世の中である。
 こうした世の中の進化現象は、あげればきりがない。【3】そして、なぜこうしたことが進化と形容されるかというと、これらはすべて、それまでの人間が必ず経験しなければならなかった数々の手間を、片っ端から省いていったからである。しかし、私は、人間はある程度の手間を自分でこなしてこそ成長するものだと思っている。【4】人間が人間らしく成長し本来あるべき姿にできるだけ近づくためには、「必要なる手間」が必ずあると思っている。手間とはそれを経験した人の個性を伸ばし人間らしさを増幅させるものなのである。
 【5】オーストラリアのある小学校では、卒業前に必ずオリエンテーリングがあるという。地図や磁石、懐中電灯、それに食料など野外活動に必要な道具を一そろい持ち、二人一組で指定された場所から数日の野宿をしながらゴールを目指す。
 【6】途中、険しい地形もあれば、道に迷うこともある。もちろんヘビなどの危険な動物とも遭遇する。携帯品のなかには血清もあるというから、その危険のほどがうかがえる。しかし、どんな障害も、すべて二人で切り抜けていかなければならないのだ。
 【7】このオリエンテーリングの授業は、子供たちに単にサバイバルの方法を教えるというものではない。そうやって野外活動をするためには、道を探し、危険を察知し、次に自分たちがとるべき行動を決めていかなければならないわけで、そこには的確な判断力が求められるし、パートナーとの協調性も必要になる。【8】そして何より、さまざまなことへの対応を考えて、あらゆる方向ヘアンテナを張りめぐらせておかなければならない。まさに、人間の本能的なアンテナの修練である。
 【9】現代では、あらゆるものがそろい、しかも面倒なことは避ければいいわけで、子供たちにとっては、あえて本能的なアンテナを張りめぐらせる必要がなくなってきているのではないだろうか。そのため、決定する力がにぶり、清濁の明確な区別もつけられないようになってきているように思う。【0】∵
 便利さや快適さを求める人間の欲求が、文明を発展させてきたことは事実であろう。しかし、そのために、有形無形の人間本来の財産をたくさん犠牲にしてきていることに、そろそろ私たちは気づくべきではないだろうか。
 私たちが、手間のかからない生き方をしている限り、生きることの喜びを感じることはできない。人間にとって、生きる喜びはどこにあるかと問われても即座に答えることは難しいだろう。しかしそれは、決して大げさなものでも派手なものでもなく、あえて言葉にするなら、心躍る状態、感動に満ちあふれる状態をもてる日々ではないかと思う。そんな喜びを味わわせてくれるものとは何なのか。それは、「今まで知らなかったことをきょう知った感激。また、あした新しいことを知るかもしれないという期待」である。
 私は十六歳から十八歳までの三年間、北大予科時代の恵迪寮けいてきりょうにお世話になった。この寮が十数年前にその歴史を閉じることになり、私は元住民ということで、NHKからレポータを命じられ、もう一度訪れることができた。かつて私が住んでいた部屋を訪ねたとき、何よりも懐かしく、またうれしかったのは、壁から天井にかけてあますところなく書かれた落書きが健在だったことである。そして、その落書きのなかにあったのが「ボーイズ・ビー・アンビシャス」であった。もちろん、創設者のクラーク氏の言葉である。これは、多くの人が「少年よ大志を抱け」の言葉として習っているはずだ。「野心を抱け」と訳される場合もあるが、いずれにしろ、最初に私の目に飛び込んできたこの言葉は、そのときの印象のままに、決して陳腐になることなく、いまだに、こぎたない壁の落書きと一緒に私のなかで生きつづけている。
 生きる喜びとは、感性をとぎすまし、自然の大きさと人間の魅力を日々発見することにあると思う。
 そういう生き方をすることが私のアンビションである。だから私は、少年たちに、「少年よ野心を抱け」と書いたとき、野心に「のごころ」と仮名をつけることにしている。

(牟田悌三(むたていぞう)著『大事なことは、ボランティアで教わった』から)