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課題集 ヌルデ3 の山

○自由な題名 / 池新
○寒い日や雨の日 / 池新


★夜中、仕事をしていたら、 / 池新
 夜中、仕事をしていたら、背後から空を切る音がした。右耳をかすめて、小さな影が部屋の中を羽音をたててまわった。一瞬驚いた。蜂に見えた。シャーッと乾いた音をたてて一周し、手元の机の角に下りてとまった。
 蝉である。
 東京の真ん中に近い、西麻布の小さなアパートに、しかも夜中の三時を過ぎて入って来た。
 私の部屋には窓がひとつしかない。その窓を背に私は仕事をする。夏場は暑いので、夜風が吹く時分に窓を開けっ放しにして座る。窓のすぐ側に少し大振りの樫の木が伸びている。たぶん蝉はこの樫の木で昼間過ごしていたのだろう。
 小さな虫は時々やってくる。しかし蝉は初めてである。
 蝉はじっと動かないでいる。うるし塗りのように黒いつやのある頭部と、こぶのように盛り上がった胴部が、よろいのようで勇ましい。羽は見事な曲線でふち取られ、すき通った羽膜に何本もの黒い細い線が、地図でよく見る河の支流のように流れている。なんと精巧にできているのか。
 小さい頃何度も蝉を捕りに行っていたのに、その時はこんなことに気付かなかった。
 今年の夏は、ほとんど外国に出かけていて、弟の命日に気付いたのはタヒチの島で、しかも夜だった。供養に何も送ることができず、帰れないとの電話も入れられなかった。ひどく情けなかった。
 私の弟は十六歳の時に海で遭難して死んだ。私が二十歳はたちの夏だった。弟が死んでからしばらくして、私の町で、弟は自殺だった、といううわさが広がった。弟の性格を知っていた私は、世間はばかな話をするものだと気にもとめなかった。
 ところがある夜、私はお手伝いの小夜から、弟に関して思ってもみなかったことを聞いた。∵
 それは弟が、小夜と二人で春先から何度も近くの川へ樽や筏を運んで、川下りの練習をしていた、という話だった。
 私は弟の意外な面を耳にしてとまどった。弟はどちらかというとおくびょうな性格であった。幼い頃、二人で道を歩いていて放し飼いの犬にでくわすと、そっと後ろから私の上着を引っ張るようなところがあった。
 小夜の話と自殺のうわさ話が気になって、その夜、私は弟のことをいろいろと考えてみた。私は弟のことを他人よりよく知っていると勝手に思い込んでいた。だが、それは兄としての私の思い過ごしで、弟の性格や、考えていたことは、本当はまるでわかっていなかったのではないか……。
 私が最後に弟に会ったのは、彼が遭難した年の正月で、大学の野球部を退部たいぶした私に、父は大学をやめてすぐに家業を手伝うか、将来役立つ勉強をしろと命じた。それは文学部から他の学部に転部しろということだった。私はそうしたくないと返答した。つかみ合いに近いもめ事になった。父に逆らうことなど我が家では考えられないことだった。私は飛び出すように家を出て、東京へ向かった。しばらくして、弟が家を継ぐという話し合いがついたと知った。

(伊集院静「夜半の蝉」)