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課題集 ヌルデ3 の山

○自由な題名 / 池新
○木登(きのぼ)りをしたこと / 池新
○将来なりたいもの、ゆるしてあげたこと / 池新

★立て板に水のように、 / 池新
 立て板に水のように、よどみなく挨拶をする人がいる。言葉もきれいだし、中身もソツがない。けれど――その中に心がこめられていなければ、相手はしらけてしまう。頭の良さをひけらかした、口先だけの世渡りはこちらの胸を打たないし、潤滑油にはならない。礼儀正しく、キチンと型にはまりすぎた挨拶も、ときとしていや味になることがある。
 毎日、うちへ手伝いに来てくれる娘さんと私は、いつでも、どこでも、何をしていても声をかけあうことにしている。朝、彼女が仕事着に着替えているとき、私がその前の廊下を通る。その足音でこの娘さんは、襖をちょっとあけて、
「お早ようございます」
 と首だけ出してニッコリする。これがお互いに(さあ、今日もこれから働きましょう)という合図になる。座ってお辞儀をすることもない。私たち庶民の暮らしは、とにかく忙しい。
 少々のお行儀の悪さは堪忍してもらうことにしている。
 私が、つきあう若い人たちは、それぞれに自分流の挨拶が、ピタリと身についていて、気持ちがいい。けれど、――年寄りの欲とでも言うのだろうか。私はもう一つだけ、この人たちに望んでいることがある。昨日の挨拶とでも言ったらいいのかしら。つまり、一つのことを終わらせるための挨拶である。
 私は若い人たちの相談にのり、いっしょに悩み、あれこれ助言することが多い。ときにはその家族へ到来ものをわけたり、手料理の腕をふるって、もてなすこともある。その場ではもちろん、彼も彼女もとても素直に喜んでくれる。
 だが……チラッと、心にすき間風が吹くのは、その後、この人たちに逢ったときである。
 顔をつき合わせていても、まるで忘れたもののように何にも言わない人が多い。∵
 たぶん、昨日のことは昨日のこととして、心の中から消えているのだろう。
「昨日のブドウ、おいしかった?」
 などと、いくら親しい間柄でも、そんな恩着せがましいことなど言えるわけはない。
「このあいだ、ご心配をかけたこと、おかげさまであれから先方とうまく話がつきました」
「昨日いただいたお菓子、母の大好物だったので大よろこびしていました。ご馳走さまでした」
 とか、たったそれだけの言葉でお互いの心がふれあい、それが親しさを増し、人間関係を深めることになる、と、私は思う。
 夫婦、親子の間でも、こうした日常の挨拶はあったほうがいいし、それが暮らしの中のけじめにもなる、と思うのだけれど。


(沢村貞子「ご挨拶のすすめ」)