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課題集 ズミ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎根 / 池新

★日本の論壇で / 池新
 日本の論壇で、「個性」の行きすぎということが「戦後民主主義」とからめて批判的に議論されたときがあった。私は、そのような論者に基本的にうさんくさいものを感じて、同調するどころか、まともに取り合う気にすらならなかった。
 民主主義が、否定されるべきものとして議論に出てくること自体、何を言いたいのかわからない。「戦後」という限定詞を付けたからといって、なぜそれがネガティヴなニュアンスになるのか?
 「戦後民主主義」の中での「個性」や「権利」の行きすぎを論ずる論客に至っては、最低限の論理的整合性すらないように思われた。「個性」が輝いたり、「権利」が認められたほうが、よいに決まっている。「個性」や「権利」といった、人類が長い歴史の中で勝ちとってきた価値を否定的に議論している論客は、自分の論文が凡百の雑文と同等に扱われたり、財産が恣意的に没収されても、かまわないとでもいうのか。おそらくは、自分だけは例外というわけなのだろう。英訳でもしてみれば、論理構造の破綻にすぐ気づく。まさに、日本語で書かれ、日本語圏という特殊なマーケットで消費されることでしか成立しえない、ロクでもない議論であったように今でも思っている。
 「個性」が社会全体の調和と相容れないというのはとりわけ粗雑な議論で、科学的に見ても間違っている。「個性」は、他者とのコミュニケーションがあってこそ、はじめて磨かれるものだからである。個性が輝いている人は、同時に他者との関係性を大切にし、社会にも貢献する人である可能性が高い。逆に、顔のない、没個性の人のほうが、よほど社会から孤立し、調和を乱す可能性が高い。社会の調和のためにも、一人ひとりが個性を磨くのがよいのである。日本は個性よりも全体の調和をはかる社会だからなどと、呪文のようなことを言っていても仕方がない。
 そもそも、人格というものは他者との関係性なしでは成立しない。他者との濃密なやりとりの中に徐々に形成されていくのが私たちの人格である。河原の石ころが流されていく間に他の石とぶつかってしだいに形を変えていくように、私たち人間もまた、他者との行き交いの中に、しだいに人格をととのえていく。その中で、しだいに一人ひとりの個性が立ち上がってくる。モーツァルトが誕生∵し、小林秀雄が生まれてくる。狼に育てられた少女の実話を見ればわかるように、他者との関係なしに人間らしい個性を際だたせることはできないのである。
 インターネットに象徴される情報化社会の高度化で、「個性」の価値はかつてなく高まっている。個性のない、均一社会の調和しか考えない人間だけが集まった国をつくっても、国際競争に勝てない時代がすでに到来している。「ビートルズ」という強烈な個性を持ったロック・バンドが登場したことによって、英国がどれだけの恩恵を得たか。マイクロソフトのビル・ゲイツや、アップル・コンピュータのスティーヴ・ジョブズのような個性的な創業者が出現していなかったら、アメリカの経済はどうなっていたか。戦後民主主義の中で個性が行きすぎたなどとする言説は、科学的な記述としてだけでなく、実体経済におけるパフォーマティヴの文脈の中でも間違っている。
 個性は、他人とのやりとりの中で磨かれる。日本の中に、個性を磨くために必要なコミュニケーションが不足しているわけではあるまい。むしろ、濃厚すぎるくらいだろう。問題なのは、コミュニケーションの内実である。コミュニケーションにおける力学の働き方によっては、個性を大切にするアメリカのような国も、没個性をよしとする風潮が見られぬでもなかった一時期の日本のような国もできあがる。力学をどう設計するかが、コミュニケーションの作用を決するのである。

 (茂木健一郎『思考の補助線』による)