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課題集 ズミ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎太陽 / 池新

★「民主的人間」は / 池新
 「民主的人間」は、身の周りの他者を自分の同類とみなす。「民主的人間」にとって、他者とは、自分と同じように、喜び、悲しみ、生き、そして死ぬ存在である。アダム・スミス(イギリスの経済学者)は「共感」概念によって、新たな道徳原理を打ち立てようとしたが、トクヴィル(フランスの思想家)に言わせれば、人が他者の感情や思考に共感するのも、他者を自分と同類とみなす想像力があってこその話である。他者の喜びや痛みに共感するには、そもそもの前提として、その他者が自分と同じように喜んだり、悲しんだりする存在であるという認識がなければならない。そして、そのような認識が当然のものとなったとき、はじめて「人類」という理念も生じる。人類とは、自分と、自分と同じように感じ考える同類の集合体として観念されるものにほかならないからである。
 (中略)
 これらのことがすべて正反対なのが、「アリストクラシー」の社会である。不平等こそを社会原理とする「アリストクラシー」の社会において、人を序列化するヒエラルキーの存在は自明視され、人は自分が社会のヒエラルキーのどこに位置するかということから、自己を認識する。このような社会において自然なのはヒエラルキーであり、身分制である。ヒエラルキーや身分制の存在は、過去から当然に存在してきたものであり、誰かが何らかの意図に基づいて作り出したものとは見なされない。人は自分の身分と自然に一体化し、自分が所属する集団の他のメンバーと密接に結びつく。そのような社会において、人は他者との紐帯を疑うことはない。
 このような社会において、ルールや規範は自分たちで決めるものではなく、自分たちの力の及ばない外部からもたらされる。価値の源泉は、自分たちを越えたところにあり、自分たちはそれを受け入れ、従うしかない。ヒエラルキーの存在もまた、そのような価値の源泉によって正当化される。人々はそれを正当であると考えて疑わないため、服従には卑屈さはない。むしろ、それに従うことに喜びを見いだすこともありうる。
 もう一つ、「アリストクラシー」の社会においては、人と人とが違っていることが当然であり、人々を隔てる身分の壁が自明視されるが、その意味で人間間の差異は自然なものである。このような社会においては、人と人とを区別する差異は、あまりに当然な存在であって、なんら特別の価値を持つものとは見なされない。ところが、人と人とが互いを同類とみなす「デモクラシー」の社会におい∵ては、むしろ逆説的に、人と人との差異やその個性がそれ自体として価値と見なされるようになる。「デモクラシー」の社会において、人は相互の平等性を前提に、自分の個性、独自性、差異を強調するようになり、これを他者に承認してもらいたいと願うようになる。しかしながら、「デモクラシー」の社会において個性が価値となるのも、あくまで原則としての平等があってこその話である。ある意味で、「デモクラシー」の社会における個性の追求は、平等の枠内において、平等が許容するかたちで差異を取り戻そうとする試みとしても理解できるだろう。

 (宇野重規『トクヴィル 不平等の理論家』より。文章を一部改変した)