課題集 ズミ3 の山
苗
絵
林
丘
○自由な題名
/池
池新
◎水
/池
池新
○外国人労働者、日本の食糧問題
/池
池新
★文化がたんなる習慣と
/池
池新
文化がたんなる習慣と異なる点は、常に一種の価値意識を含んでいることです。それゆえに、たんなる習慣には高いも低いもありませんが、文化には高い低いという質的な違いが生まれてくる。背後に文明という価値基準があり、それがいかに個人の身についているかが文化だからなのです。
わかりやすい例を一つ挙げましょう。ピアノや楽譜というものは西洋で生まれたものですが、まさにこれは文明の典型例です。楽譜は頭のなかの秩序であり、ピアノは頭のなかの技術を物質化したもので、したがって急速に世界に広がりました。
しかし、社会のなかにピアノがある、楽譜があるということと、個人にとってピアノが弾けるということはまったく異なる現象でしょう。
ピアノが弾けるとはどういうことか。たんにマニュアルに従い、順を追って鍵盤を押すということではありません。キーの前に座ったら、もう指が動いてしまっているという状態になったとき、つまり身についた行動になったとき、真の意味でピアノが弾けるといえます。当然ながら、この行動には価値の上下があって、上手な人もあれば、下手な人もあるわけです。
こうした現象は、生産技術の分野、たとえば工業の分野にも起こりうることです。二十世紀になって近代工業は世界中に普及していきました。それは近代工業が文明であり、頭の産物だったからにほかなりません。しかし、しばしば指摘されるように、技術伝播がスムーズにいかない場合もあります。機械文明を受け入れた側の人びとがうまくなじめず、技術が文化として身につかないことも少なくない。この技術を身につける文化的な部分を、われわれは俗に「ノウハウ」と呼んでいるわけです。
文明の教育と文化の教育はいささか異なります。文明の教育が世界の果てまで容易に広がっていくのにたいして、文化の教育は人間の身体の能力に結びついているため、容易に平面的には広がらないのです。
ピアノの弾ける人が集団的に増え、その集団が面をなして広がっていくことは考えられないでしょう。ただ、その代わりというべきか、文化は文明地図の距離を超えて突然に、一人の身体から他の人∵の身体へと伝わることがあります。近年、中国や韓国から優れたピアニストが輩出していますが、彼らの育った環境はピアノにとっては異文明の世界でした。しかし、そうした環境にあっても、一人の個人が懸命に練習することで、文化としてのピアノを身につけることができたのです。
行動がまるで技術のように規範に従いながら、しかも文化として身につくという営みは、日常生活の一部にも現れます。一般にこれは「作法」と呼ばれますが、そのもっともいい例が日本の「茶の湯」でしょう。
湯を沸かし茶を点てて飲む。このごく日常的な行為が、茶の湯ではまずいったん手順に分解されて定式化されます。帛紗を捌き、茶碗を拭うといった、すべての動作が作法として図式化される。しかし、茶の世界でよくいわれることですが、手順が人の目に見えるようではまだ上達したとはいえない。水の流れのように、自然に見えるまで練習を重ねなければならない。いいかえれば、第二の習慣となったときに、上手な茶の湯、つまり文化としての茶の湯が成り立つのです。
したがって、文化の教育は非常に難しいともいえるし、しかし一人一人の個人が自分の責任と努力によって習得できる不思議なものだともいえます。
(山崎正和『文明としての教育』)