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課題集 ズミ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎草 / 池新

★メリトクラシーを / 池新
 メリトクラシーを社会の編成原理のひとつに置く近代社会において、不平等の生成と正当化は、学校にゆだねられた重要な役割である。教育を通じて測定される「業績(メリット)」をもとに、人びとを社会経済的地位に配置する。先進産業社会ではどこでも、教育を通じたメリトクラシーが、社会的不平等の生成と正当化に大きくかかわっている。
 ところが、教育を通じたメリトクラシーといっても、その具体的なプロセスには、社会によって大きな違いがある。たとえば、イギリスやフランスでは、教育の場で業績を測定する際に、論述式の試験や口述試験が重視されている。このような場合、正しい語法やアクセント、レトリックの使い方といった、主に言語表現にかかわる出身階層の文化が、業績評価のプロセスに入り込む。出身階層の文化と試験で測られる文化との距たりが小さいのである。その結果、学校での成功のチャンスは、どのような階層文化を身に付けたか――いいかえれば、どのような家庭に生まれたのか――によって左右されることになる。
 フランスやイギリスにおいて、あるいは人種間の問題として見た場合のアメリカなどで、「文化的再生産」の議論が盛んに行なわれるのも、階層文化を媒介とした不平等の生成が、可視的でリアリティをもつからだ。学校は、どの階層の子どもたちに対しても、公平な扱いをしている。どの子どもにも、学校で成功するうえで、同じ条件が与えられているはずだ――そうした信念への疑義の提出。「文化」の顕在性ゆえに、これらの社会では、学校を通じた不平等の再生産が、その過程で不覚にも綻びをみせてしまうのである。
 それに対し、日本の学校は、そのような綻びをほとんど外に見せることなく、見事に不平等の再生産を果たしてきた。日本でも、家庭で伝達される文化資本が、学校での成功を左右していることはたしかである。文字や数字などの記号を操る能力、丹念に論理を追う能力、ものごとをとらえるうえで具体から抽象へと飛躍する能力。これらの能力の獲得において、どのような家庭のどのような文化的環境のもとで育つのかが、子どもたちの間に差異をつくりだしていることは否定しがたい。そして、こうした能力の違いが学校での成功と失敗を左右するであろうことも容易に想像できる。それ∵でも、日本の場合には、学校で測られる学力は、特定の階層の文化から「中立的」であると見なされている。しかも、生得的な能力の差異をなるべく否定し、「子どもにはだれでも無限の能力、無限の可能性がある」と見る能力=平等観が広まっている。そして成育環境の違いと成績との関係をむすびつけて見ること自体にも、子どもに差別感を与えるのではないかと慎重な態度がとられるのである。がんばればだれでも「一〇〇点」がとれるとする努力主義信仰も根強い。日本でも「客観的」に見れば、子どもの出身家庭と成績との間に相関関係を見いだせるのだが、そうした事実自体を、教育実践の前提とはしない傾向が強いのだ。それゆえ、大衆教育社会が完成の域に達した以降は、特定の階層や集団にとって日本の教育システムが有利にはたらいているという見方それ自体が、多くの人びとにとってはあまりピンとこない現実となっている。それほどまでに教育を通じた社会の大衆化が進展したのだ。実際には学校を通じて不平等の再生産が行なわれていても、そのような事実にあえて目を向けないしくみが作動しているといえるのである。

 (苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』による。一部改変)