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課題集 ズミ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎窓 / 池新

★自身の創造性や潜在能力を / 池新
 「自身の創造性や潜在能力を信じろ」というのはたやすい。ところがまさに、この「潜在能力イデオロギー」が、私たちの生を苦しめてもいる。格差社会のなかで、私たちはこのイデオロギーに押しつぶされそうになることがある。
 ここ数年、日本では格差社会論が大きなテーマとなっている。いまや格差社会論は、時代の流行言説となったといえるだろう。しかし実際のところ、日本の経済格差が急激に広がっているのかといえば、そうともいえない。大竹文雄の分析によると、所得格差の拡大は、一九八〇年代からの傾向であって、近年になって急激に拡大しているわけではない。また、最近の格差拡大の主な原因は、人口の高齢化によるものであって、三十代から五十代の世帯主の所得不平等度は、ほとんど変化していないという。
 (中略)
 私たちは、低所得の人々に対して、救いの手を差し伸べるべきだという。低所得の人々は、教育や職業訓練の機会を奪われているのだから、さまざまな政策を通じて、希望の道を与えるべきだという。あるいは私たちは、反対に、低所得の人々を道徳的に非難することがある。低所得の人々は、総じて人生に対する意欲が低く、やる気がないからダメなのだ(自業自得)と非難することがある。低所得層をめぐるこうした同情/非情の両論には、しかし、一つの共有前提があるだろう。すなわち、現代社会においては「意欲をもって潜在能力を開花させること」が「よいこと」であって、ところが低所得の状態では「希望」や「意欲」を失ってしまう、という認識だ。
 格差を批判する人も肯定する人も、あるいは、格差社会の「負け組」を哀れむ人もそうでない人も、論者たちは総じて、潜在能力を実現することが大切とみなしている。そしてこの潜在能力イデオロギーの観点から、勝者と敗者の格差を問題にしている。格差社会論の本質は、実体としての経済格差よりも、むしろ「潜在能力イデオロギー」を投影することから生じているのではないか。つまり、「勝ち組」は自己実現しているからすばらしいが、「負け組」は潜在能力を開花させていないからかわいそう、というわけである。∵
 けれども、こうした潜在能力イデオロギーの「投影」の仕方は、どこか間違っていないだろうか。はたして、経済的に成功した人たちは、本当に潜在能力を開花させることに成功しているのだろうか。成功者といわれている人たちの多くは、むしろ職場では自分の可能性を試すことがあまりなく、長い残業労働に苦しめられているのが実状ではないだろうか。
 また反対に、低所得の人々は、本当に潜在能力を開花させていないのだろうか。むしろ、「ナンバーワンよりオンリーワン」を目指しつつ、自分なりの潜在能力を開花させている人も多いのではないだろうか。低所得層の人々が総じて潜在能力を実現していないというのは、私たちの偏見であるだろう。にもかかわらず、多くの人々は、「低所得層ほど自己実現していない」という錯覚を抱いている。そのよい例は、「ニート批判」である。
 「ニート」とは、年齢十五歳から三十四歳で、仕事も通学も家事もしていない者を指しているが、その数は二〇〇二年以降、しだいに減少してきた。にもかかわらず、人々は、ニート批判に強い関心を示している。その理由はおそらく、人々は「潜在能力イデオロギー」の観点から、意欲のない者や自身の潜在能力を試さない者を、以前にも増してはげしく軽蔑するようになったからであろう。ニート批判は、自らの潜在能力を開花させずにストレスを抱えている人たちが、自分よりももっと潜在能力を開花させていない人を非難するという、いじめの構造から生じているように思われる。

 (橋本努『自由に生きるとはどういうことか』による)